www.jrcl.net
台 湾 かけはし98.3.29号より
戒厳令解除から11年 ――労働運動・社会運動の現状
革命的社会主義潮流をめざす活動家に聞く(上)
昨年12月の台湾立法院と自治体の選挙における国民党の勝利は、87年戒厳令解除から11年を経た台湾の民衆運動が大きな曲がり角に来ていることをあらた めて明らかにした。階級的オルタナティブが問われている。以下のインタビューは、昨年11月、台湾で革命的社会主義潮流の建設をめざして闘っているグルー プの活動家・洪家瑜さんに対して、日本から訪れた仲間が行ったものである。
政治・行政システムの現状
――まず現在の台湾の政治体制を説明してもらえますか。
洪 家瑜 憲法で最高権力機関とされる国民大会があります。国民大会代表は、省や県などの選挙区から選出されるものと、海外華僑、職能、女性団体から選出され るものがあります。以前は総統と副総統の選出、解任権がありましたが、92年に総統は直接選挙で選出されると憲法が改訂され(副総統は総統が指名する)、 現在は憲法改訂機関としての役割が中心になっています。民主進歩党(以下、民進党)は廃止を主張しています。
次に立法院ですが、内政、外交、国防、司法、経済などの委員会に分かれており、選挙で選出された委員によって政府の政策が立てられていきます。その選出制度は国民代表大会と同じです。(注1)
次に行政機構や総統を監査する監察院です。以前は地方議会から委員が選出されていましたが、92年5月からは総統による指名制に変りました。以上の3つが、「中央民意代表機構」といわれ、各委員は有権者の選挙によって選出されます。
司法院は最高司法機関で、日本の人事院に相当する考試院とともに、監察院から院長を指名されます。そして、日本の内閣に相当する行政院があります。日本の首相に相当する行政院長は総統が指名します。現在は、国民党の蕭萬長が行政院長です。
立法院、監察院、司法院、考試院、行政院の権力機構体制は、かつて孫文が提唱したもので、「五権憲法体制」と呼ばれます。
台湾の行政区分は、大陸との関係で幾分複雑です。現在中華民国の支配権が及ぶ地域には、台湾省と福建省があります。しかし、福建省はいくつかの島があるだけで、実質的には台湾省だけと言えるでしょう。台湾省とはいわゆる台湾本島を指します。(注2)
次に、中央政府直轄市として台北市、高雄市があります。そして県市(人口によって県と市に分けられる)があり、その下に郷鎮や区があります。
87年戒厳令解除に至る闘い
――87年7月の戒厳令解除までの民主化の過程を紹介してください。
49年5月20日から87年7月15日まで、戒厳令体制は続きました。80年代に入るまで、台湾では国政選挙はなく、国民代表や立法委員は、国民党がまだ大陸にいた頃の47年に大陸の国民党支配地域で選出された人々によって構成されていました。
戒厳令の時期にも、政党結成を求める運動がありました。例えば50年代には「自由中国」という雑誌に結集したグループがありました。大陸出身の自由主義者と国民党内の反対派から構成されており、中国民主党を結成したのですが、60年に弾圧されてしまいました。
民主化運動が力を割いたのは、省議会、あるいは台湾省選挙区から選出される立法委員や国民大会代表の選挙でした。このように選挙を通じて民主化運動を推し 進める民主派は、「国民党以外」ということで「党外」と呼ばれました。党外運動の主な要求は「国政議会の全面的改選」「政党結成の自由」「戒厳令の解除」 でした。
79年12月10日、美麗島事件が起こりました。79年8月に創刊された月刊誌『美麗島』に台湾各地の党外勢力が結集し、選挙 活動を含むさまざまな活動を展開しました。台湾全島11カ所に支社ができ、半ば全島レベルの政党を形成した状態になりました。12月10日は世界人権デー で、高雄で大衆集会を企画して、当局による集会不許可の決定にもかかわらず3万人が参加しましたが、警察と衝突し、指導者は「反乱罪」で逮捕され、『美麗 島』誌の発行もできなくなりました。
もちろんそれ以前にも数多くの白色テロがありました。美麗島事件で党外運動は弾圧されましたが、広 範な民衆の同情も集めました。これに続いた選挙では、弾圧された活動家の家族や、その弁護士が立候補して、高い得票率で当選しました。現台北市長の陳水扁 (注3)などもその時期に立候補した人間です。当時逮捕された人間の多くは、現在民進党の幹部になっています。
美麗島事件以降、党外運 動はさらに盛りあがり、多くの党外雑誌が作られました。84年、これら数多くの党外雑誌の編集者や作家を中心に「党外編集作家聯宜会」(以下「聯宜会」) という組織が作られました。ここには党外の若い活動家が結集しており、党外運動の専従となっていきました。
同じ頃、党外出身の各級議会 の議員が集まった「党外公共政策研究会」が結成されました。後に若い活動家専従は、選挙活動を中心とした路線に対して批判をして、自ら『新潮流』という雑 誌を創刊しました。彼らは現在民進党の中で「新潮流派」と呼ばれる大きな勢力になっています(注4)。
美麗島事件後、学生たちが党外の 選挙活動や雑誌の出版を支援するようになりました。これが台湾学生運動の起源といえるでしょう。85年末、統一地方選挙があり、党外の各候補は選挙協力を 進めました。この選挙協力が86年9月の民主進歩党の結成につながりました。当時の台湾総統であった蒋経国は、これを無視する形で直接の弾圧は行いません でした。結社の自由、戒厳令解除、報道の自由を求める民衆の声に抗しきれなかった蒋経国台湾国民党政府は87年7月15 日、ついに戒厳令を解除しました。
民主化闘争の中の労働運動
――民主化の過程の中で、労働運動はどのような位置にあったのでしょうか。また労働運動の現状を聞かせてください。
民進党が結成されてから2ヶ月が経った86年12月、台湾省選挙区選出の立法委員選挙と国民大会代表の部分選挙が実施され、民進党は非合法のまま選挙戦を 闘いました。その時には職能別選挙に労働者出身の候補者が民進党から出馬し、国民党の労働者候補に勝利しました(注5)。これは国民党に対する労働者の不 満を表していたといえるでしょう。
当時、年末ボーナスに関する争議が多発しており、御用組合からの自立、労基法の適用をもとめる闘いも盛りあがっていました。このように台湾全土で労働者の闘いが盛りあがっていた状況で、各政治勢力は労働者の力を無視できなくなり、その取り込みを模索していました。
84 年、台湾で労働基準法が国会を通過しました。前述の新潮流派の一部と、「夏潮」と呼ばれるグループが共同で台湾で最初の労働者支援団体、「台湾労工法律支 援会」(以下「労支会」)を結成しました。夏潮グループは中華人民共和国との統一を掲げる中国民族主義者と社会主義者のグループです。現在の労動党の中心 はこの夏潮グループです。労支会が結成された時期は戒厳令下だったので、労基法など法律サービスを通じた労働者支援を中心としていました。彼らは「労働 者」という雑誌を創刊しました。
87年末に労働者政党である「工党」が様々な活動家を集めて結成されました。高雄選出の民進党立法委員 の王義雄は民進党を離党して工党の結成に加わりました。労支会の夏潮グループも工党の結成に参加します。以降、労支会は新潮流派がリードしていき、現在は 「台湾労工陣線」という労働運動支援団体になっています。
当時、台湾の労働運動の重要な勢力は工党と労支会でした。工党は主席に王義 雄、副主席に羅美文(現「労動党」主席)、秘書長(幹事長)に蘇慶黎(夏潮系雑誌の編集長。父は台湾共産党党員)、労働運動部に汪立峡(現労動党幹部)な どが就任していました。また現世新大学教授の蔡建仁(注6)や後述する工人立法行動委員会の呼びかけ人である鄭村祺も参加していました。
工党は結成半年で問題が発生しました。夏潮グループは、王義雄が労資協調路線を進んでいるとして批判をし、王義雄は夏潮グループの路線が過激すぎると批判 しました。当時のマスメディアは工党の内紛を大きく取り上げました。工党は88年5月に分裂し、夏潮系の人間は89年3月末に労動党を結成しました。他の 活動家も個人的に活動を継続していきました。例えば蔡建仁はさまざまな社会運動に従事していきますし、王義雄は南部の工業都市である高雄で現在も政治活動 を続けています。
これ以降台湾の労働運動は大きく分けて3つに分裂していきます。
労働運動の中の三つの潮流
一つは労支会から労工運動支援会を経て現在に至る台湾労工陣線です。前述したように民進党内の新潮流派が主導権を握っています。数年前には労働者階級の政 党を結成しようと言っていたこともありましたが、実現には至っていませんし実際にはその気もないのではないかと思います。
その頃、労工 陣線の中心的指導者であり民進党の新潮流派に属していた簡錫階は、民進党から立法院選比例区に立候補しました。一方では「労働者階級の政党を結成する」と 言っておきながら民進党から立候補したので、内部で論争になりました。そのとき簡に批判的だった労工陣線の若い活動家たち(学生運動出身の台湾独立左派) は、『紅灯左転』(赤信号左転換)という雑誌を作って分裂していきました。彼らは現在、各地の産業総工会(非国民党系の自主地域労組)などで活動していま す。
次に、労動人権協会があります。労動人権協会は、前述の労動党が指導する組織です。労動党は、結成当初中国との統一を明確にはして いなかったのですが、 91年の第2回全党代表大会で、「民族と階級を解放する道を進もう」というスローガンと中国との統一を前面に押し出しました。以降、中国との統一を積極的 に打ち出して選挙に参加していますが大きな影響力はないと言えるでしょう(注7)。
そして工人立法行動委員会(以下「工委会」)です。 指導者は、鄭村祺(注8)と呉永毅で、ともにもと台湾最大の日刊紙「中国時報」の記者でした。彼らは組合を組織したとして「中国時報」を解雇されました。 以降、労働運動に参加し、女工団結生産線と労工教育資詢発展センターを作りました。
この2つの労働者支援組織が中心となって92年に工 人立法行動委員会が結成され、労基法の監督や組合法などの労働諸法の改善を要求する運動を展開していきます。この組織は、各地の労組に専従を送り込むとい う方法で、労働者を組織しています。女工団結生産線の夏林清は大学の教授ということもあって、積極的に学生を活動に引き入れています。また工委会は、毎年 11月に「秋闘」集会とデモを呼びかけています。秋闘は88年から始まりました。
台湾では84年に労基法が制定されましたが、強制力はありませんでした。88年に苗栗県の路線バス労働者が労基法を守るよう会社側に要求し、ストライキを行い解雇されたことがきっかけとなり、以後毎秋に、闘争の集約とスタートという形で秋闘集会とデモが行われています。
全国産業総工会めざす動き
――最近政府系のナショナルセンター以外に全国規模のナショナルセンターをつくろうという動きがあるそうですが、それについて聞かせてください。
台湾の労働組合法では、同一企業内や上部団体が複数存在することを認めていません。しかし、90年代初頭から上述の労働団体によって、その法を半ば無視する形で県地域レベルでナショナルセンターの結成が進められていきます。
98 年現在で、8つの県と市に産業総工会があります(注9)。これは、産業総工会のあるほとんどの県または市で民進党系の首長がその結成を支持したからです。 97年半ば以降、これら各地域の産業総工会を全国的なナショナルセンターである全国産業総工会にしようという動きが続いています。
政府 の民営化攻撃(注10)が本格化していくなかで、これまで政府系ナショナルセンター中華民国全国総工会の下部団体である全国工業総会に加盟していた中華テ レコムや中華石油などの公営事業労組が脱退し、全国産業総工会の結成に向けた動きに合流してきました。これは最近の台湾の労働運動のなかでも大きな出来事 です。
しかし、これらの公営事業労組も自らの権益を防衛するという観点から、例えば台湾電力労組は原発建設に賛成したり、他の労組で は、国民党の推せんで選挙に出たりとさまざまな問題を抱えています。また、これまで労働者階級のなかでも特権的な階層であったこれら公営事業の労働者は、 意識的にはかなり中産階級的意識を持っているといえるでしょう。 (つづく)
注1 98年12月に行われた立法委員選挙、台北・高雄市長選挙については、「かけはし」3月1日号「台湾選挙-国民党勝利と民進党敗北が示したもの」を参照。
注2 「かけはし」前掲記事の注四を参照。
注3 インタビュー当時。98年12月に行われた台北市長選では国民党候補の馬英九に敗れた。詳しくは「かけはし」前掲記事を参照。
注4 民進党の派閥は次のようになっている。「新潮流」グループは党内でも最も組織的で急進的といわれる派閥。かつては学生運動、労働運動、農民運動、環 境運動などにアンテナを広げ、大きな影響力を持っていた。人民平和革命によって台湾の独立を勝ち取るというスローガンを掲げていたが、のちに選挙を通じて 要求を実現するという戦術に転換。
「美麗島」グループは、党外雑誌『美麗島』の活動を担った活動家が中心の派閥。穏健派といわれる。こ の2つが大きな派閥で、それ以外に「正義聯線」(前台北市長の陳水扁が所属)や「台湾福利国聯線」(現高雄市長の謝長廷が所属)や「台湾建国独立聯盟」な どがある。美麗島グループは中国との経済的関係民間の関係を密接に、新潮流グループは中国と関係をあまり持たないという傾向。
注5 当時の立法委員と国民大会代表の選挙は、選挙区選挙と職能別選挙が併用されており、職能別選挙には労働者、工業資本家、商業資本家、女性などがあった。しかし有権者は選挙区か職能別かのどちらか一票しか投票できなかった。
注6 「かけはし」98年12月14日号「台湾を訪問して(下)」の「民主化スペースの間隙のなかで」の項参照。
注7 現在の労動人権協会の活動は「かけはし」前掲の「新竹県産業総工会の闘い」の項参照。
注8 98年12月に行われた台北市長選で勝利した国民党候補の馬英九の要請により、鄭は市労働局長に就任し、労働運動内部で大きな議論を呼んでいる。「かけはし」3月1日号「台湾選挙-国民党勝利と民進党敗北が示したもの」を参照。
注9 各産業総工会の結成時期と加盟労組数、組合員数は以下の通り。台北県、94年4月結成、38労組1万2千人。台南県、95年11月結成、35労組1 万人。高雄県、96年2月結成、39労組1万人。宜蘭県、97年2月結成、21労組6千人。台北市、97年3月結成、49労組4万7千人。高雄市、97年 3月結成、36労組4万5千人。新竹県、97年8月結成、21労組4700人。苗栗県、98年2月結成、13労組7893人。
注10 台湾の民営化は89年に政府が民営化達成のための作業グループを作り、民営化第一波として20の公営事業の民営化を発表したときから本格的に始まった。
91 年に公営事業民営移転法が国会で可決され、96年に国民党、民進党、新党、学者、資本家などが参加して開かれた国家発展会議では、台湾電力と中国石油の独 立採算制あるいは事業分割を実施して民営化の移行を加速し、その他の公営事業に関しては、5年以内を民営化完成の期限とした。
すでに中国石油化学、中華建設、中国鋼鉄などが民営化され、いくつかの事業も閉鎖され、今後2001年までに、農民銀行、台湾航空、台湾鉄道、中華テレコム、たばこ・酒公売局などの民営化が予定されている。
----------------------
台 湾 かけはし98.4.5号より
戒厳令解除から11年 ――労働運動・社会運動の現状
革命的社会主義潮流をめざす活動家に聞く(下)
アジア通貨危機と失業増大
――比較的アジア通貨危機の影響の少なかった台湾ですが、経済問題についてはどのような問題がありますか。また、失業率も高まっているようですが。
台湾はこれまで、輸出を中心とした経済構造でした。低賃金で環境を破壊する産業が多くありました。80年代から、国際経済の変化によって、これまで輸出に 頼ってきた多くの中小の製造業が、東南アジアや中国大陸に生産拠点を移転するという現象がおこり、工場閉鎖にともなう失業問題が悪化してきました(注 11)。しかし台湾には経営者の一方的な工場閉鎖を規制するような法律もないし、失業保険もありません(注12)。
台湾でも労働者が退職する時には退職金を支払い、雇用期間が長いほど退職金も増加するのですが、経営者はそれを嫌って、雇用した労働者が長く働けないようにわざと工場を倒産させてしまう例もよくあることです。
政府は80年代から、資本の自由化・国際化政策を進めてきました。さまざまな規制緩和を進め、外資が投資をしやすい環境を整備したり、国営企業の民営化= 私有化が進められてきました。その象徴として、「アジア太平洋経営センター」建設計画が進められてきました(注13)。政府は台湾を多国籍資本のアジア進 出拠点にしたいようで、今後、外貨管理や金融政策の規制緩和や民営化政策を進めると思います。
台湾の各政党は世界貿易機構(WTO)へ の加盟を強く要求しています。それによって一番大きな影響を受けるのは農民でしょう。農民階級はこれまでの国民党の政策で衰退してきていますが、もし農業 市場を多国籍資本に開放してしまうと、海外からの農産物の競争力には勝てないでしょう。農業だけではなく製造業、そしてそこで働く労働者も影響を受けるで しょう。例えば台湾の自動車産業は政府の保護によって育成されてきましたが、WTO加盟による悪影響のしわ寄せは労働者に行くでしょう。
最近の民営化=私有化、工場閉鎖などによって台湾の失業率はますます高くなってきています。今年8月の失業率は3・05%、9月は2・98%です(注 14)。数字だけを見るとそう高くないように思いますが、台湾の労働者には、職を失うと故郷に帰って農業に従事する人もいます。またインフォーマルセク ターも多くの失業者を受け入れています(注15)。
前述の民営化政策も失業率を押し上げています。例えば台湾路線バス会社は、もともと1万人の労働者がいたのですが、民営化によって労働者は3千人に減少してしまいました(注16)。
台湾学生運動の過去と現在
――台湾の学生運動はどうでしょうか。
80 年代までは、どこでもそうですが、大学も国民党が支配しており、民主主義というものがありませんでした。80年代中頃から自主的な大学民主化運動が起こり ました。この運動は発展の過程で二つの勢力に分かれていきます。一つは「自由之愛」派といい、台湾大学を中心としたグループで、自由主義的な潮流です。民 進党の新潮流系などとの関係が深いものです。
もう一つの潮流は、88年ごろにさまざまな大学の小さなサークルが集まって結成された「大 学改革促進会」です。ここには左派系学生が集まっており、その後「民主学生聯盟」に改称して労働運動、環境運動、農民運動などに参加していきました。学生 が社会運動に参加するというこの伝統は、現在でも残っています。
90年2月、国民党の内紛で李登輝などの主流派を支持し発言権を増した 万年議員らが、待遇の改善を要求しました。これに反発した台湾大学の学生数十人が国民大会の解散などを訴えて国民党本部に押しかけ、排除されたことをきっ かけに、学生を中心とする民主化運動が盛り上がりました。
3月中旬から下旬にかけて台北市中心にある中正(蒋介石)記念堂広場に座り込 みハンガーストライキなどで民主化を訴えました。この闘争で全国学生運動聯盟(全学聯)が結成されました。闘争は李登輝の「改革を堅持する」という発言を 引き出して終了しました。現在、全学聯は存在せず、小さな社会派サークルが連絡を維持しているという程度です。
民進党はオルタナティブか
――社会運動活動家や民衆は、国民党に対抗している民進党をどのように見ているのでしょうか。民進党は台湾のオルタナティブを提起していますか。
台湾の社会運動における問題として、民進党に対する思い入れというものがあります。民進党は、党外時期から国民党の独裁に反対し民主主義を勝ち取る運動を代表してきました。ですから社会運動活動家や民衆は民進党に深い感情を抱いています。
民進党の基盤は、これまでずっと下層労農大衆です。しかし民進党が掲げる要求はブルジョア階級のもので、その経済的基盤は中小企業主なのです。例えば経済 の自由化や国有企業の民営化を支持しています。このような政策に疑問を持つ人々も、かつての民進党の栄光に幻想を抱いているので、独立した勢力を形成でき ないでいます。
労働組合の幹部や環境運動活動家など、普段は民進党の政策を批判しているのですが、肝心な時、例えば選挙の時などはやは り民進党に投票してしまいます。私たちはこれを「民進党感情」と呼んでいます。台湾のさまざまな既成政党の政策は、統一独立問題を別にして、経済社会問題 に関してはほとんど違いはないといっていいでしょう。
「民進党感情」をうち破るオルタナティブが必要でしょう。
戦後補償運動と社会運動
――日本の運動との関連で二つほど質問します。旧日本軍兵として戦争に参加した台湾人や軍隊慰安婦の補償問題について、社会運動はどうとらえているでしょうか。
私はその問題についてあまり知らないのですが、従軍慰安婦に関しては女性運動の側からのアプローチなどがあるようです。台湾人日本軍兵士は、自分たちで機 関誌を発行していますが、一般的に社会運動との関わりは非常に少ないようです。彼らの運動のなかで戦争の問題や帝国主義に関しての問題提起はなく、逆に運 動のアイデンティティーを日本軍に求めている傾向のために、社会運動とは関係が作れません。この点に関しては韓国とは大きな違いがあるのではないでしょう か。
日本の軍拡と民衆の意識
――私たちは、現在日米安保の強化や新ガイドライン関連法案をはじめとする日本の軍事力の強化に反対する運動をしていますが、台湾ではそのような問題をどうとらえていますか。
台湾では日本に親しい思いを抱いている人も多く、日本に対する感情は複雑なものがあります。日米安保や新ガイドラインに対する感情は、朝野ともに歓迎とい うムードといえるでしょう。なぜなら、台湾はこれまでも「反共」の砦でした。それは現在中国が急速に資本主義へ向かっているという状況でも変りません。で すから日本の軍拡に反対するという社会的な運動は起こっていません。大多数の台湾人にとって、日本の軍拡は危険ではないと考えられているのです。
もちろん労動党は日本とアメリカの軍拡に反対しており、さまざまな反対活動を行っています。しかし、社会的な影響力はほとんどないというのが実状でしょ う。逆に民進党は新ガイドライン歓迎のムードです。例えば釣魚台問題ですが、台湾では新党内部の中国民族主義者と労動党が、日本の釣魚台支配に反対してい ましたが、一般の人々はほとんど興味を持ちませんでした。
私自身は、かつて学校教育で(国民党の政策もあったのですが)、日本帝国主義は非常に悪いもので、侵略者であると教えられましたが、私よりも若い今の小中学生の世代は、そのような歴史的事実に対してますます意識が薄くなってきているでしょう。
例えば南京大虐殺については、台湾独立運動が一つの潮流となっていく中で、「それは中国人が受けた被害であって自分たちの被害ではない」というイデオロ ギーが増大していくかもしれません。これからの若い世代に、日本帝国主義との闘いについて話をしても理解されないでしょう。特に日本の文化――マンガやテ レビドラマ、芸能人などが若者の話題となっている状況では特にそう言えると思います。
統一独立問題へのスタンス
―― 国家間の紛争を軍事的手段によって解決することは、何も解決されないし、生み出しはしないでしょう。湾岸戦争のときであってもそうでしたし、この間アメリ カが進めている全世界の紛争への介入も、すべて自らの国益のために軍事的介入を行っているだけです。現在わたしたちが反対している新ガイドライン安保は、 アメリカの世界的な軍事行動に日本が無条件に追随していくものです。
台湾が独立するのか統一するのかに関しては、その決定権は民衆にあると思いますが、日米安保体制はその選択権を軍事的にはく奪してしまうものであると思います。あなた方はどのようにお考えになりますか。
もちろん軍事同盟によって民衆の選択権が犯されることには、絶対に反対です。また、日米安保体制へのスタンスは統一独立問題にも関係してきますし、中国共 産党の階級的性格に対する評価にも関連してきます。大陸の状況についてはあまり把握していませんが、香港の先駆社の考えに共感を持っています。
台湾の独立運動は、アメリカ帝国主義と日本帝国主義のテコ入れという面もありますが、日本帝国主義による植民地化や国民党による独裁政治への反発から起 こってきたという性格が強いと考えています。ですが現在の独立運動の主流は、完全に帝国主義のイデオロギーに依拠したものです。私たちはこのような運動に はもちろん批判的です。それは民衆の自決権とは大きくかけ離れているからです。
統一独立問題に関しては、あまり深く検討したことはない のですが、将来的には、現在の中国への吸収あるいは資本主義への屈服的表現である「一国二制度」ではない、国際主義に貫かれた社会主義連邦を形成するべき だと考えています。これは労動党の中国民族主義的立場とは異なると考えています。なぜなら私たちの目標は中国との社会主義連邦の形成だけにとどまらず、日 本、フィリピン、朝鮮半島などさまざまな国、地域との連邦を形成することだからです。
――その目標に向けて、これからも討論関係と交流を深めていくことができればと思います。ありがとうございました。
注11 98年の工場閉鎖数は6788件で前年に比べて133・75%増となり、過去四年間で最悪の水準を記録した。政府の経済部門は、今年上半期はこの状況がさらに悪化すると予測している。
注12 失業保険の給付は99年1月から開始された。保険料は月給の1%。掛け金が5年以内であれば最高3ヵ月、5年以上10年未満であれば最高6カ月、10年以上であれば最高8カ月の給付を受ける事ができる。
注13 95年から本格的に進められてきた台湾各地に国際的な金融、メディア、航空、通信、製造、海運のセンターを建設し、国際資本の中国大陸、アジア諸地域への進出の拠点にするという計画。アジア通貨危機などの影響で、計画は順調に進んでいない。
注14 98 年8月時点の台湾総人口は2182万5千人で、労働人口は954万5千人(就業者926万人、失業者28万5千人)。12月の失業率は2・8%で、85年 以降の同月失業率の最高を記録した。失業者数は26万9千人で、その内、工場閉鎖や操業停止による失業者はおよそ9万人に達する。12月の失業者の特徴と して、25歳から29歳までの青年労働者の失業率が2・34%と、全体の中では低いが、これまでよりも増加しており、全体の平均失業期間が24周と、前月 よりも一周増加している。
注15 台湾労工陣線の郭国文事務局長は、中国語週刊誌「亜洲週刊」99年2月14日号のインタビューのなかで、現在の失業の特徴を次にように語ってる。
「今回の失業現象は、80年代初めの時とは異なります。当時の失業者は、低学歴でキャリアの浅い女性労働者が中心であり、失業してもまだ最後の砦である農 村あるいはインフォーマルセクターに行くことができた。しかし今回の失業現象は、賃金が唯一の収入源である青年のホワイトカラーおよび現場労働者に集中し ています。また農村の土地もすでに乱開発や投機によって、住宅建設に使われており、土地を持つ人間もますます少なくなってきています。ですから、工場閉鎖 やリストラによって失業した人々は、全くその退路を絶たれるのです」
注16 たとえば煙草酒公売局は、WTOの市場開放圧力により、この4年で労働者を一万4千人から9千人に削減し、さらに2000年の民営化までに7千人にまで削減するとしている。