Thursday, February 28, 2008

闇の監視部隊

追跡 闇の監視部隊

対象勢力/卑劣な目、抗議集会にも

(1)

 「共産党の抗議集会を情報保全隊がさぐりに来る」。十四日に開かれた自衛隊による国民監視活動についての「報告・抗議集会」。その数日前の夜、自衛隊関係者からこんな情報が寄せられました。「市谷、練馬、目黒の三駐屯地の保全隊が動くはず。がっしりした男には気をつけろ」
筋肉質の男

 集会当日、取材班が会場の憲政記念館(東京都千代田区)周辺を警戒していると…。

 開会から一時間以上前の午後零時四十分。会場近くの喫煙所から集会の受付方向をのぞく鋭い目つきの男。記者たちと何度か視線がぶつかります。立ち上がった男は、憲政記念館の出口付近にまで下がり、カメラを取り出しました。レンズをこちらの方向に向けシャッターをきる動作。声をかけようとすると、筋肉質な背中を見せ足早に立ち去ってしまいました。

 挙動不審の男は何者なのか。警察の警備担当者は「警察の者ではない」といいます。

 「対象勢力」――情報保全隊が執拗(しつよう)な監視活動を行う背景を読み解くキーワードの一つです。

 防衛庁(当時)で「陸幕調査部工作官」だった柳内伸作氏は、情報保全隊について興味深い記述を残しています。

 「対象勢力(自衛隊では自衛隊を敵視する政治勢力、日本共産党や旧社会党などをそう呼んでいる。)の監視、自衛隊内の不穏分子に対する調査などが任務」(別冊宝島『世界のスパイ』)

 自衛隊の国民監視活動を身近に見ていた元陸上自衛隊幹部は、「対象勢力」をこう解説します。

 「『自衛隊に敵対的なため、監視が必要な団体や個人』という意味です。別にこちらが敵視していなくても、自衛隊側がそう判断したらすべて対象勢力になる」

 情報保全隊の内部文書の一つは「イラク自衛隊派遣に対する国内勢力の反対動向」という表題でした。そこには驚くほど広範な団体・個人が監視対象に。気に入らない者はすべて敵、という「軍の暴走」ぶりが浮かび上がります。

 元陸自幹部も現役時代、調査隊(現情報保全隊)から市民監視の報告を文書や口頭で受けていたと証言します。

 「毎月の『駐屯地部隊長等会議』で、調査隊幹部が『対勢力動向』について報告していた。対勢力というのは対象勢力と同様の意味です。文書をもとに平和集会、消費税反対の宣伝、選挙演説まで共産党や労組、市民団体の行動を細かく報告。マスコミの取材活動も『反自衛隊活動』に分類され、報告されました」
暴走止めろ

 国民監視の実態を白日のもとにさらした日本共産党・志位和夫委員長の記者会見(六日)は、新聞やテレビで大きく報じられました。広範な団体、市民が参加した報告・抗議集会は、国民的反撃ののろしです。

 仲間が監視された体験を報告した東京平和委員会代表理事の男性(50)は、こう語ります。「ここまで広範で本格的な監視がやられているとは。志位さんが指摘したように、『軍の暴走』を止めなければ大変なことになる。まさに踏ん張りどころです」



 自衛隊情報保全隊による国民監視活動に怒りが高まっています。政府・防衛省は居直っていますが、逃げ切れると思っているのでしょうか。違憲・違法で卑劣な「闇の部隊」の実像に迫ります。

 「赤旗」取材班

(つづく)

6月21日「しんぶん赤旗」付 



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「面割り」/未公表の名前まで記録

(2)

 「面割り」――人物の容ぼうから、犯罪の容疑者などを特定することをいいます。警察などの捜査機関であれば別ですが、日常生活では使われることは少ない言葉です。

 「情報保全隊では、日常的にやってますよ」

 ここに、情報保全隊の活動を知る人物がいます。仮にX氏と呼びます。日本共産党が明らかにした同隊内部文書について「同様のものを見たことがある」というX氏は、情報収集のために同隊が「面割り」を行っていると証言します。その対象は、犯罪者ではなく市民です。
長期の収集

 内部文書からも、面割りの痕跡が……。

 基地の町、長崎県佐世保市。二〇〇四年二月五日の昼、市内の繁華街に自衛隊のイラク派兵に反対して署名活動をする人たちの姿がありました。

 佐世保平和委員会や佐世保原水協が主催し、九人が参加しました。「イラク自衛隊派遣に対する国内勢力の反対動向」(同年二月十日付文書)は、うち六人の名前を漢字で正確に記し、所属団体も明らかにしています。

 「宣伝で発言していない人まで、内部文書に名前が出ている」。参加した一人、日本共産党の山下千秋佐世保市議は証言します。「自衛隊による情報収集の深さは相当なもの。長期にわたる監視活動があったのではないか」と話します。

 「どう本人に説明したらいいのか…。ショックを受けるだろうから話せない」。佐世保原水協事務局長の男性(47)は、宣伝では明らかにしていない二十代女性の名前が記されていることに心を痛めています。

 「以前からマークされていたのではないだろうか」というのは、宣伝に参加した男性(73)です。

 男性の肩書は、内部文書では「北部地区常任」。ところが、男性が日本共産党長崎県北部地区委員会で働いていたのは一九九八年十一月まで。文書に記載された五年以上前のことです。
個人名簿も

 「情報保全隊には団体や個人の情報を蓄積したリストがある」(X氏)。政府に批判的な団体や個人を監視するために名簿を作成し、肩書や住所の変更を把握した場合は、更新しているといいます。

 X氏は、自衛隊が「面割り」に使う写真を収集する手段についてこう説明します。「集会や宣伝の場で顔を判別するための写真を撮影している。記者になりすまして顔写真を撮ることもある。新聞から切り抜いたり、公安警察からも提供を受けている」

 自衛隊員に無断撮影されたというのはAさん(72)=福岡県小郡市=。Aさんは〇二年七月二十六日、原水爆禁止世界大会に向けた国民平和大行進の隊列の中に居ました。午前十一時ごろ、同市の陸上自衛隊小郡駐屯地の前を通りかかると、門の中から自衛隊員が出てきて、隊列に向けてカメラを構え何度もシャッターを切りました。

 「許せないと思い、その姿を写真に撮ると、小走りで門の中へ戻っていった。今回、情報保全隊の監視活動が明らかになって、やはりそうかと思いましたよ」

 (つづく)

「しんぶん赤旗」2007年6月22日付 

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潜入・尾行/私服・一般車の自衛官

(3)

 キャンドルを手に、平和を求める市民のパレード。隣にいるのが、自衛隊員だとしたら…。

 情報保全隊の活動を知るX氏の証言は続きます。「かれらは、私服で勤務することを許されている。使用する車のナンバーも車種も、自衛隊では例外的に一般と変わらないもの。外から見ても自衛隊員とはわからない」
長髪色白の

 身分を隠し、民間人を装って情報収集活動を行っているのです。

 「参加者や通行人にまぎれて集会やデモに入りこむ。参加者の名前、発言内容を記録して、撮影もする」(X氏)

 元陸上自衛隊員の体験談にもこんな記述があります。「(駐屯地に)時々、髪の毛の長い、色ジロの隊員が出入りする…知る人ぞ知る調査隊(現情報保全隊)のメンバー。ウワサでは、髪の長いのは、学生集会などに潜り込むためという」(『逃げたいやめたい自衛隊』根津進司著)

 内部文書「イラク自衛隊派遣に対する国内勢力の反対動向」には、屋内で行われた集会、講演会の記載もあります。

 同文書によると「イラクレポート」と題した講演会が二〇〇四年二月十五日、北海道名寄市内の市民会館で開かれました。参加者は五十人。北海道新聞など四紙が報道しましたが、内部文書の講演者の発言に該当する部分は、各紙とも掲載していません。

 どのようにして発言内容を把握したのか。

 「情報を得るためには手段を選ばない。潜入だって辞さない」と語るのは、情報収集活動を身近に見ていた陸自元幹部です。「情報収集の対象となるのは屋外の場だけではない。屋内の集会であろうと大胆に潜り込む」といいます。

 実名で記載された男性(57)=沖縄県=の場合、非公開の集まりでの発言まで記録されていました。

 〇四年一月二十八日、沖縄中部地区労の議長だった男性は、同地区労の「旗開き」であいさつしました。「旗開きは仲間たちを呼び、一年間がんばろうと誓い合う場です。外部に公開したわけではありません」

 会場の中頭教育会館(沖縄市)は教職員組合の所有で、公共施設ではありません。外部の人が、自由に出入りすることはほとんどないといいます。招待したのは、労組関係者や友好団体の人たちだけでした。

 男性は「自衛隊員が入りこんでいたのか、それとも誰かを送りこんだのか…。情報保全隊の活動は、民主主義の社会では許されないこと。『ものを言えばどこでも聞いてるぞ』と脅されているようだ」と話します。
前身組織も

 前身の調査隊は、さまざまな団体にスパイを送りこんでいたといいます。「『八〇年代の初めまで、陸自調査隊は左翼系の活動団体に潜入し、情報活動を続けていた』。元防衛庁幹部はうち明ける」(「読売」〇四年六月十日付)。

 X氏はいいます。「尾行も手段の一つです。集会やデモに潜り込んだ情報保全隊の隊員は、集会終了後は駅まで参加者を尾行する。必要があれば自宅までつける」

 (つづく)

「しんぶん赤旗」2007年6月23日付

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略号「P」/市民色分けし継続把握

(4)

 「P1」。情報保全隊が、監視対象団体を分類するさいの略号の一つです。同隊内部文書から推定すると日本共産党の地方機関、議員団を指すものとみられます。内部文書では、「P1」が二カ所に記述されています。

 その一つが二〇〇四年二月五日、愛知県春日井市内で開かれた市民集会。約九十人が集まり、自衛隊のイラク派兵反対を訴え、JR春日井駅まで宣伝行進しました。

 翌日付の地元紙(中日新聞)は、「イラク派遣反対デモ 春日井市民ら 『憲法違反』など訴え」と報道。「市内の女性団体や市民団体でつくる実行委員会の呼び掛けに応じた約九十人が…集合」したと書きました。
根拠どこに

 同集会を内部文書は、次のように記録します。

 「P1春日井等関係者約八十人は、春日井市内で『イラク派兵反対2・5市民AS』を行い…」

 「いったいどういう根拠で分類しているのか」と憤るのは、尾張中部地区労働組合総連合の議長。集会の実行委員会には、同労組のほか、平和団体、女性団体など十団体が参加していました。

 「集会では、共産党市議団も連帯のあいさつをしたが、実行委員会には入っていない」と議長。「これまで参加したことのない大学の先生にも来ていただいた。新聞が『共産党系』と書いて、それを引用するならまだしも、自衛隊が勝手に分類するとは不愉快だ」と語ります。

 日本共産党は、平和と暮らしを守る多くの団体・個人との共同をすすめています。それを自衛隊の独断と偏見で「共産党系」などと色分けするとは。憲法が保障する思想・信条の自由を踏みにじるやり方です。

 何のために略号を使うのか。ある軍事ジャーナリストは、こう指摘します。「自衛隊にとっての『異物』、つまり敵意を持つ勢力を日常的に監視している。監視対象の動向を継続的に把握する上で、略号とナンバリング(番号付け)による区分けは、把握が簡便になり、都合がよいからだ」
全運動対象

 内部文書に登場する略号は「P1」だけではありません。「S」「GL」「CV」…。

 情報保全隊の活動を知るX氏は、「Pは共産党系、Sは社民党系、GLは民主・連合系などと政治勢力ごとに分類するのが基本だ。これらの分類にどうしてもあてはまらないものはCV(市民)に入れる」と解説します。

 内部文書によると、「P」は「P1─19」に細かく分類しています。本紙の調べで、「P5」は「安保破棄中央実行委員会」、「P7」は「日本民主青年同盟」を示す略号であることが確認できました。

 「野党や市民の運動はすべて監視対象になっている」とX氏。「デモや集会で新しい団体が出てきた時は、どの政治勢力に分類するかが大切な仕事だ。分類することによって個別の行動を勢力別に整理して体系的につかむことができる。たとえば共産党系は動きが活発だ、などとわかる。そうやって監視情報を膨大に蓄積している」

(6月24日 つづく)

「しんぶん赤旗」2007年6月24日付


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横の連携/諜報機関ネットワーク

(5)

 駅前やデパート前でのわずか数人の宣伝ですら、監視して記録していた自衛隊情報保全隊の内部文書。これを目にした諜報(ちょうほう)機関に詳しい専門家は、口をそろえます。
公安と連日

 「公安の情報が流れているのではないか」

 「公安」とは、戦前の特高警察を源流に持つ公安警察のこと。ビデオ撮影や盗聴、スパイ工作など非合法な手段を用いて、日本共産党や労働組合、市民団体の活動を監視・妨害する警察の裏の顔です。

 『日本の公安警察』(講談社)の著者でジャーナリストの青木理氏は、こう語ります。

 「自衛隊が、ああいうものをつくっていたことに驚いた。あれだけ詳細に市民の運動を把握しているということは、公安を通じて警察の基本情報が流れている可能性が高い。諜報機関同士が横の連携も強めているだろう」

 情報保全隊の活動を知るX氏の証言は、さらに衝撃的です。

 「警察の公安とは連日のように情報交換をしている。公調(公安調査庁)にも、必要な情報をもらっている」

 非合法手段をも辞さないスパイ組織と強大な軍事力を持つ自衛隊とが結合して国民を監視する。背筋が寒くなる話です。

 X氏によると、情報保全隊の国民監視活動は、警察や公調との密接な連携のもとになりたっているといいます。

 「陸自の場合、全国五カ所の方面情報保全隊が集会やデモの日程をつかみ、各駐屯地の派遣隊に連絡する。こうした情報を最もつかんでいるのは警察だ。なぜなら集会やデモは、警察に申請が出されている場合が多いからだ。さらに少人数の行動も公安は細かく把握している」(X氏)

 連携は行動予定の収集だけにとどまりません。実際に行われたデモや集会の模様も警察や公調から知らされ、互いの情報の補完、突き合わせが行われるのだといいます。

 元警視庁公安警察官の男性は、公安警察の情報を自衛隊が利用していたと証言します。

 「自衛隊への応募者やその家族の身元を調査するため、私が在職中も自衛隊員がひんぱんに警察の公安の部屋に来て、カード型のブラックリストをめくって見ていた。いまは電子データ化されているはずだ」

 男性は、自衛隊の国民監視活動のねらいを、こう指摘します。

 「公安と相互に突き合わせることで、情報が正確になる。これは、新聞やテレビだけでは決して得られない情報だ。これだけ全国的かつ詳細に国民の動向をつかめば、自衛隊のイラク派遣が、政府や自民党にダメージを与えるかどうかもわかる。これは政権与党にとっては、すごく役に立つ重要な情報だ」
常に内側へ

 軍事組織とスパイ組織がネットワークをつくり、共同して国民を監視する。憲兵隊や特高警察を使って国民の権利と自由を奪い侵略戦争に突き進んだ、戦前の暗黒時代を想起させる事態です。

 前出の青木氏は、こう警告します。

 「情報機関というのは、市民団体だとかメディアだとか、常に内側へと向かっていくのが習性なんです。歯止めがなければ、そうなってしまうんです」

 (つづく)

「しんぶん赤旗」2007年6月25日付

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反響/驚き怒りたたかう決意

(6)

 「ひどい。許せない!! 恐ろしい! 気持ち悪い」。日本共産党が陸上自衛隊情報保全隊の内部文書を公表(六日)した翌日、怒りを示す顔文字を交えたメールが届きました。

 差出人は弁護士を目指して法科大学院で学ぶ女性(25)=東京都=。「あれが率直な気持ちです。もっともっとみんな怒らなくちゃダメです」と語ります。

 女性は、久間章生防衛相の「(情報収集は)悪いとは思わない」「国民はみな情報収集の対象」という発言にショックを受けました。「憲法や法律の基本を無視して、平然と飛び越えている。これを許してしまったら、何のために法律を学んでいるのかわからなくなる」
委縮しない

 これまでイラク戦争に反対する集会などに参加してきたという女性は、「言いたいことを言えるのが、あたりまえの社会。今回のことで委縮してしまうのは悔しい。これから友だちにも、この問題を話していく」といいます。

 内部文書の公表後、日本共産党や本紙にはたくさんの反響が寄せられています。その多くは、国民のあらゆる運動を調査し、思想や信条まで掌握しようという情報保全隊の活動を知っての驚きと怒りを表明するものです。

 ○…二十六歳♀アルバイターをしている者です。帰ってきてパソコンを開くとYahoo(ヤフー)のトップニュースで共産党の告発記者会見のことが載っていて、とても衝撃的でした。九条を大事に思って平和が良いという人を縛っていったら、本当に戦前の日本のようになってしまうと思う。

 ○…現在米国在住で日本の選挙権はありませんが、応援の声をと思いメールしました。自衛隊の行為は全くの越権であり、「プライバシーを守る」という民主主義の根源を揺るがすことでもあります。

 ○…自衛隊のこの活動に戦慄(せんりつ)しました。「国民の軍隊」ではないわけですね。共産党を好きではないけど、今回の告発は支持します。(男性)

 ○…記事を読みました。本当に信じられない内容で全身で憤りを感じています。(二十歳、女子学生)
我慢は限界

 冒頭の弁護士を目指す女性のように、自らの問題として考え、民主主義の社会を守るためにたたかおうと決意する人、たたかいを呼びかける人もいます。

 ○…私はクリスチャンです。個人情報保護をうたいながら一方で国民のプライバシーを侵害し、思想信条および信教の自由を脅かすともいえる政府の態度を深く憂えます。自分にできることをこつこつやっていきます。

 ○…自分たちの権利を守るために何をしなければならないのか、しっかり考えなければならない。

 ○…監視するのは本来国民で、監視されなければならないのが自衛隊のはず。もう我慢限界。

 ○…リストに載っていた団体に所属しております。このたびのこと、市民として声をあげます。ぜひ国会でも追及してください。(埼玉県在住)

 (つづく)

「しんぶん赤旗」2007年6月27日付 


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再編強化/情報収集の任務を統合

(7)

 「自衛隊の調査隊が情報保全隊に改組されたとき、幹部たちは鼻息が荒かった。隊内での役割や位置付けが高まったからだろう」

 自衛隊情報保全隊の活動を知るX氏はこう語ります。
機動的運用

 それまであった「調査隊」を再編強化し、情報保全隊が設立されたのは二〇〇三年三月。この組織の任務について、「陸上自衛隊情報保全隊に関する訓令」(石破茂防衛庁長官名、同年三月二十四日付)は、「部隊、機関などの情報保全業務のために必要な資料及び情報の収集整理及び配布」と記しています。

 政府は、設立の目的を「情報漏えい対策」と説明してきました。直接のきっかけとされるのは、幹部自衛官がロシア海軍大佐に機密文書を渡した情報漏えい事件(二〇〇〇年九月)でした。

 〇二年四月四日、参院外交防衛委員会での政府答弁です。

 「秘密漏えい事件の再発防止策の一環として、情報保全隊を新編する。現行の調査隊が、これまで中央、地方が別個の指揮系統であったものを、一つの指揮系統に統合することで、より機動的な運用が可能になる」(守屋武昌事務次官)

 前身の調査隊は、警察予備隊が保安隊に改編された直後の五二年に設置されました。米陸軍の諜報(ちょうほう)機関をモデルにしたとされます。

 改組による大きな変更は、全国五つの方面部隊に分割して置かれたこの情報部隊を、防衛庁長官(現防衛相)直轄の全国組織として編成しなおしたことでした。

 「全国組織になり、全国規模で情報を集めることが容易になった。共産党が公表したイラク派遣への『反対動向』文書もその一例。情報は『判断材料』として、幕僚監部やさらにもっと上にまで上げられる」(X氏)
独特の意味

 情報保全隊や調査隊の任務について書かれた自衛隊関連の文書には、「保全」という用語が繰り返し登場します。これには、独特の意味がこめられています。

 防衛学会編著の『国防用語辞典』(一九八〇年、朝雲新聞社)によると、「保全」は英語の「カウンターインテリジェンス」の訳。「敵の情報活動および謀略活動を防止または破砕して、情報資料、人、物、施設、組織および機能等を防護するためのあらゆる活動」と解説します。

 東部方面調査隊の派遣隊長も務めた元陸自幹部学校教官は「カウンターインテリジェンスを、われわれの先輩が『対情報』と訳した。後に『わかりにくい』との指摘で、行政用語として『保全』と言い換えた」と説明します。

 同氏によると、カウンターインテリジェンスとは「平時、戦時の別なく脅威を探知するための情報活動」を行うこと。つまり、「保全」という用語には、情報収集活動も含まれることになります。

 戦争と情報の関係に詳しい早稲田大学教授は「一般論として、軍は本質的に、すべての自国民を情報調査の対象とする。そして『敵性』であるかどうかの判断をし、情報を蓄積しようとする」と指摘します。

 国会での「情報漏えい防止のため」との政府答弁とは裏腹に、情報保全隊の設立とは、国民監視の情報収集を任務とする部隊の中央集権化を意味していたことになります。

 (6月28日 つづく)

「しんぶん赤旗」2007年6月28日付 


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「軍の論理」/平和憲法「束縛」と認識

(8)

 自衛隊情報保全隊の前身にあたる調査隊の活動を知る元一等陸尉は語ります。

 「駐屯地の各部隊長には、調査隊から毎月の治安報告がある。ほかにも年間四回、詳細な『保全情報』が配布されていた。『治安情勢』『反自衛隊活動』などの項目があり、集会や街頭宣伝の詳細な記録が添付されていた」

 しかし、これまで政府は市民を対象に活動していることを、公式には認めてきませんでした。

 調査隊の情報収集活動について、国会で政府が追及されたことがあります。一九七三年九月二十六日の参院内閣委員会。

 上田哲議員(社会党)「調査隊が、反基地闘争なり反自衛隊感覚を持っている政治家であるとか、記者であるとか、一般人であるとか、そうした者は断じて対象にしないということは確認を」
やってない

 山中貞則防衛庁長官「そういうことはまさかやるはずもありませんし、やってはならないことですし、やっていない」

 軍事問題に詳しい纐纈(こうけつ)厚・山口大教授は「通常の軍なら行う活動でも、平和憲法下の自衛隊ではできない。憲法は軍事的な要素をまったく前提としていないからだ。できないことをやっていたから、当然政府は『やった』とは言えなかった」と見ます。

 防衛省の行政用語で、こうした情報収集活動は「対情報活動」や「保全」と呼ばれます。

 これらの用語について、調査隊時代の六三年に発行された「訓練資料『師団』詳解」(陸上自衛隊幹部学校刊)に、興味深い記述があります。

 「第2章 対情報」の「部外保全」の項。

 「部外者特に住民に関係する対情報の処置は、複雑かつ微妙な特性を持ち、かつ国内法規その他の関係から、その具体策を明らかにするに至らないので、本条においては、部隊保全に関する師団の立場、実施にあたっての主要な考慮事項を記述するにとどめてある」

 市民を対象とする対情報=情報収集活動を行うけれども、法律などとの関係があるので具体的には書けない―と読み取れます。

 決して表立っては認められない国民監視活動。情報保全隊の活動を知るX氏も「情報保全隊の幹部も、『われわれの活動が表面化すれば大変なことになる』という認識だ」と語ります。
180度ちがう

 しかし、今回の内部文書の公表に際しての政府の説明は、従来の姿勢と百八十度ちがうものでした。

 「(自衛隊が)情報収集をして分析をすることは今までもやってまいりましたし、決して悪いことじゃないんじゃないでしょうか」

 六月七日、参院外交防衛委員会で、久間章生防衛相は日本共産党の緒方靖夫議員の質問にこう答弁しました。

 纐纈教授は、「久間答弁がどの程度、政府や防衛省内で詰めたものであるかは疑問」としつつ、次のように語ります。

 「平和憲法は、自衛隊が全面的な『軍隊』として活動することを許さない。防衛省や自衛隊には、これを『不当な束縛』と認識する流れが、間違いなくある。政治家が憲法とまったく相いれない『軍の論理』から発言し、国民がそれに慣らされていくことは危険だ」

 (つづく)

「しんぶん赤旗」2007年6月30日付

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米軍と連携/「情報共有・協力は重要」

(9)

 東京・市ケ谷の高台に“威容”を誇る、防衛省の高層ビルの一室。防衛政策局調査課情報保全企画室の専任部員が、平然と言い放ちました。

 「治安機関全般と連携し、必要があれば米軍との連携や情報交換もありうる」
重大な発言

 自衛隊による監視活動の対象にされ、六月十二日に抗議と中止要請に訪れた安保破棄中央実行委員会の参加者は、あまりの重大な発言に、思わず互いの顔を見合わせました。

 米軍との連携―。すでにレールは敷かれています。五月一日、日米安全保障協議委員会を終えた日米の外務、防衛の四閣僚がワシントンの米国務省での記者会見で報告しました。日米双方が強調した一つが?情報戦?での連携強化でした。

 日本側「日米協力を一層推進する観点から……日本政府全体としてカウンター・インテリジェンス(対情報収集活動)の分野を含め、しっかり取り組んで行く」

 米側「日米の防衛協力を強化していく上で、情報共有及び情報協力は重要な基礎」

 自衛隊の情報部隊と米軍の密接な「連携」は過去にも発覚したことがあります。

 神奈川県座間市の閑静な住宅街に囲まれた、米軍座間基地。今でこそ在日米軍再編で、日米両政府が合意した米陸軍第一軍団司令部の移転先として広く知られています。しかし、そこが日米の軍事情報部隊の「中枢基地」という事実は厳重に秘匿されていました。

 一九七五年二月十一日、日本共産党の松本善明衆院議員(当時)に送られてきた一通の手紙がきっかけでした。党と「赤旗」特捜班の追及でその恐るべき実態が次々に明らかにされました。

 情報保全隊の前身、陸上自衛隊調査隊の調査学校(東京都小平市)出身の陸自二佐が、座間基地にオフィスを持っていたのです。
専用回線で

 米国防総省と同じ五角形の建物で?小ペンタゴン?とよばれる基地司令部の一室。二佐には普通の黒電話とは別に専用回線でつながる「白電話」が与えられていました。?連携?していたのは米陸軍五〇〇部隊。米軍諜報(ちょうほう)部隊です。

 「諜報」に詳しい陸自幹部学校の元教官が語ります。「座間キャンプの五〇〇部隊の仕事の一つが対情報活動。米国や駐留米軍に対する世論動向を普段からずっと見ている」

 同基地に出入りしていた陸自の秘密情報機関、「陸幕二部別班」の「内島二佐(別班長)」は、日本共産党などの野党情報を収集、米軍に提供していました。その一方で別班員は日本で拉致され、殺害されそうになった韓国の大統領候補の金大中氏の事件に深く関与するなど「日本のCIA」「影の軍隊」と呼ばれていました。

 あれから二十年余たった二〇〇一年秋。アメリカでの同時テロをきっかけに自衛隊法を「改正」、自衛隊に新たな任務が与えられました。米軍基地の「警備」です。〇五年の在日米軍再編計画で、加速する米軍と自衛隊一体化の道。

 沖縄・辺野古沖、朝もやにかすむ一隻の軍艦。米軍新基地建設の「事前調査」に投入された海自の掃海母艦「ぶんご」です。海自の元上級幹部は「米軍とも事前に調整したはず」と言います。防衛省の守屋武昌事務次官が県民の反対動向にふれ、こう述べています。

 「当然、海上自衛隊(の情報保全隊)も関心をもっているだろう」(沖縄タイムス六月九日付)。「米軍との連携、情報交換」の姿が見えてきます。

 (つづく)

「しんぶん赤旗」2007年7月1日付 

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恣意的判断/「おそれ」で無制限調査

(10)

 陸上自衛隊が発行した「ARMY」(特別号 二〇〇四年九月十五日)。第二次イラク復興支援群の記録写真集です。二ページにこんな写真があります。「朝霞転地訓練」。

 銃を肩からつるし、打ちあわせをする隊員の姿。北海道の陸自北部方面隊員です。
イラク想定

 場所は埼玉県の陸上自衛隊朝霞訓練場。イラクを想定した「市街地戦闘訓練」でした。

 〇四年二月十七日から四日間、朝霞訓練場で本紙記者は、この訓練を取材しました。

 建物に向かって身をかがめて前進する数人の自衛隊員。銃を水平に構え、隊長の合図でいっきに突撃。別の部隊は駐車中の車両に身を隠しながら、突撃部隊を援護する実戦さながらの訓練でした。

 この模様は、同訓練の監視行動に取り組んだ日本平和委員会の取り組みとともに報道しました。

 情報保全隊は内部資料にこう記録しています。

 「日本平和委員会は2・18(水)、イラク派遣部隊の一部が東方区内で行っている訓練の中止を求める申し入れを行った。同時に、P(日本共産党=本紙注)は、党機関紙『しんぶん赤旗』(2・19付)で、朝霞駐屯地における訓練に対する視察結果を詳細に掲載」。続けて「これはPが訓練の円滑な実施を妨げることを企図し、地元P系組織に調査活動を行わせたものと思われるが、訓練実施に影響はなかった」。

 内部資料は、日本共産党と市民団体があたかも訓練を妨害する目的で組織的に動いているかのように描きあげています。
挑発的記述

 この挑発的で意図的な記述から、ある文書が思い起こされます。

 情報保全隊新設に向けて、当時の防衛庁防衛局調査課が作成した「政策評価書」(〇一年六月―八月)です。これまでの調査隊の任務遂行上の問題点をあげ、機能強化策をこう指摘しています。

 「保全事案が発生するおそれのある場合にも情報の収集整理を実施することで、保全事案を未然に防止することが可能となり、保全をより効率的かつ効果的に行うことができる」

 現行の自衛隊法で予測にもとづく情報収集が認められているのは治安出動の下令前に限られています。しかし情報保全隊は「おそれのある」という恣意(しい)的な判断で、調査が無制限に可能であるかのように主張しています。

 戦前の治安維持法には、目的遂行罪や予防拘禁制があり、「おそれのある」という口実で弾圧されました。そして再び……。

 陸自北部方面隊の元上級幹部が言います。

 「情報保全隊の調査は任務遂行上、必要。しかし私は、自衛隊を引退した人間で、現職とは温度差がある。どこまで、どういうふうに調査するかの判断はむずかしいが、無制限ではないと思う」

 こうした懸念をよそにある陸自幹部は、国民監視は無制限だと、声高に反論します。

 「おそれのある場合がどんな場合かは一概に言えない。情報保全隊の訓令に包括的に示されている。どういう判断で、どういう範囲を対象に調査するかは最終的には単位部隊の裁量になるだろう」

 (つづく)

「しんぶん赤旗」2007年7月2日付 
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戦意高揚/「戦時」の情報戦を重視

(11)

 二〇〇五年十月三日、防衛庁(当時)。陸海空三自衛隊の各幕僚長と全国の主要部隊の指揮官ら約九十人を集めた「統合高級幹部会同」で、制服組のトップ、先崎一統合幕僚会議議長が発言しました。

 「今や、ある意味で組織にとって『War Time』(戦時)であるという認識の下、たたかいつつ改革を進める」

 「戦時」とは、イラク派兵など自衛隊が置かれている状況のこと。この表現から、派兵が自衛隊の“戦意高揚”につながったことがうかがえます。
派兵の課題

 〇四年六月二十五日、埼玉県朝霞市の陸上自衛隊朝霞駐屯地の講堂。あるセミナーが開かれていました。陸上自衛隊研究本部が開いたもので、テーマは「イラク支援の教訓・現状・課題」。

 参加者は陸自隊員や防衛産業関係者ら六百人。

 イラクから帰国したばかりの陸自研究本部員などが報告に立ちました。

 イラク派兵での状況について共通認識をこう示しました。

 (1)テロの脅威下にあり、実戦と同様の部隊運用となる(2)自衛隊派遣をめぐり日本の国内世論が二分されており、国民注視の中で活動しなければならない──。

 結論として強調されたのが、「部隊防護と情報戦に最大限の努力を傾注する」ということです。

 情報戦(インフォメーションオペレーション)。自衛隊がイラク派兵で最も重要視したキーワードです。

 陸自研究本部が作成した「イラク人道復興支援活動の教訓―情報戦と部隊防護」という報告書があります。同本部は自衛隊のイラク派兵の準備、現地での自衛隊の活動上の問題点や課題を日本に送る「教訓リポート」作成などに深くかかわりました。

 報告書はその一つで、イラク派兵をめぐって自衛隊が重視した情報作戦などの事例研究集です。

 自衛隊はイラク現地と日本国内で「情報戦」を実行しました。

 イラクでは、自衛隊の作戦についてイラク国民にどうPRするか、影響力をもつ部族長や宗教指導者などにどう接近し、「信頼を得るのか」などを実施。一方、日本の報道機関の取材は「隊員の安全」を理由に制限し、監視も行いました。

 情報保全隊に詳しいX氏は言います。「東ティモールのPKOには元情報保全隊員が派遣されたが、イラクには現職の情報保全隊員が何人も参加し、情報戦の中心としての役割を担った」
世論を恐れ

 日本国内では──。

 同報告書にこんな項目があります。「日本における支持気運醸成」。紹介しているのは北海道旭川市内の街角や旭川駐屯地にかかる「黄色いハンカチ」の写真特集です。

 「イラク人道復興支援活動の特性」という項目では「派遣に関し国民世論が2分」したと分析。「情報戦成功の鍵」としてかかげたのが「日本国民の支持を獲得すること」。

 当時、福島県船引町では自衛隊員の父母らでつくる自衛隊父兄会が「戦争の巻き添えによる、犠牲者が発生する事態は憂慮に耐えない」として「イラク派遣の中止」を陳情。同議会が同意見書を全会一致で可決したのをはじめ、各地方議会で同様の意見書決議が相次ぎました。

 イラク派兵をめぐる環境はそれほど不安定だったのです。自衛隊はなによりも思想・信条をこえたイラク派兵反対の運動と世論の広がりを恐れていました。情報保全隊は、こうした背景のもと国民監視に総力をあげたのです。

「しんぶん赤旗」2007年7月3日付 


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抗議の力/撮影DVD提出させる

(12)

 取材班に届いた一枚のDVDを紹介します。中にはビデオ映像が記録されていました。

 カメラは、情報保全隊の活動に抗議する申し入れの参加者を執ように撮影します。「撮影やめろ!」と参加者の声。撮影者は、声をあげた人の顔をズームで大きく映し出します。カメラに向かって、「階級と氏名は?」と尋ねる参加者。「代表者に聞いてください」とだけ繰り返し、カメラは回りつづけます。
不当認める

 これは自衛隊員が撮影した映像です。

 福島県の「平和憲法を守り活かす郡山共同センター」と「戦争への道を許さない郡山のつどい」が六月二十九日、陸上自衛隊郡山駐屯地に申し入れを行った際に、駐屯地側が無断で撮影しました。

 撮影に抗議した男性(67)=郡山市=。日本共産党が公表した情報保全隊の内部文書に記載されていた一人でもあります。「国家権力が住民を撮影し、プライバシーを侵害することは許されない」と説きました。

 駐屯地幹部は「わかりました」と不当な行為だったことを認め、「DVDは破棄します」と約束しました。申し入れ参加者は「約束だけでは処分を確認できない。引き渡すまで帰らない」と抗議を続け、ついにDVDを提出させました。

 中身を確認すると、今回の映像だけでなく、六月二十五日に行った申し入れの様子まで記録されていました。

 撮影時間は合わせて三十七分におよびます。
意見書可決

 地方議会でも、抗議の声が広がります。

 「市民を対象にした情報収集は不愉快だ」。神奈川県大和市、市議会最大会派「無所属クラブ」の市議はこう言います。

 厚木基地を抱え、自衛隊機、米軍機が飛び交う大和市。同市議会は六月二十五日、「自衛隊による国民監視活動の中止を求める意見書」を全会派の賛成で可決しました。採決では会派決定に従わなかった元自衛官の議員一人を除く、全議員が起立しました。

 市議会には、自衛隊と関係の深い議員も少なくありません。意見書の原案を提案した日本共産党大和市議団の宮応扶美子市議は「最初は、否決になるのではと考えていた。ところが驚くほど自然に可決された」と振りかえります。

 最初に議会運営委員会で賛成を表明したのは、「無所属クラブ」でした。選挙となれば自民党、甘利明経済産業相の基盤として票を集める、保守本流と目される会派です。その賛成の動きに公明、民主、社民・無所属、市民クラブ、神奈川ネットワーク運動と全会派が続きました。

 「無所属クラブ」の市議はこう話します。「自衛隊がそこまでやっていいのかということだ。会派内で話し合ったところ、ほかの議員も情報保全隊の活動に違和感を表明した。この一点で賛成した」

 可決後、日本共産党の窪純市議団長のもとには市民団体から意見書の内容を教えてほしいと照会が相次いでいます。窪さんは「可決は、情勢が動いていることを示した」と語ります。

 さらに、同県の相模原市や東京都小金井市の議会などでも同様の意見書が可決されました。

 郡山市で撮影が不当であることを認めさせた、共同センター代表の女性(70)は言います。「監視を続ける自衛隊に、私たちは堂々と抗議していく。みんな、たたかう気持ちに火をつけたんです。権利を踏みにじられ、黙ってはいられない」

 「赤旗」取材班

(おわり)

「しんぶん赤旗」2007年7月4日付 

Social Reform or Revolution

http://www.marxists.org/chinese/index.html


社會改良還是革命?


(1898年9月——1899年4月)

 

引言

第一部分

一伯恩施坦的方法

二資本主義的適應

三通過社會改良實行社會主義

四關稅政策和軍國主義

五理論的實際結論和一般性質



第二部分

一經濟發展和社會主義

二經濟和政治民主

三奪取政權

四崩潰

五機會主義的理論和實踐

附錄:民軍和軍國主義







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社會改良還是革命?


(1898年9月——1899年4月)

引言ã

 



本文的標題乍一看來令人感到驚奇,社會改良還是革命?那麼,社會民主黨可以反對社會改良嗎?或者說,它可以把構成它的最終目的的社會革命,把推翻現存制度同社會改良對立起來嗎?當然不是。社會民主黨認為,為了社會改良、為了在仍然是現存制度的基礎上改善勞動人民的生活狀況、為了實現各種民主設施而進行的日常的實際鬥爭,寧可說是引導無產階級的階級鬥爭,力求達到最終目的即掌握政權和廢除僱傭制度的唯一道路。社會民主黨認為,社會改良和社會革命之間有著不可分割的聯繫,因為在它看來,為社會改良而鬥爭是手段,而社會革命是目的。

我們在愛德華.伯恩施坦的理論中第一次看到把工人運動的這兩個要素對立起來。在他發表在1896——1897年《新時代》上的、以“社會主義問題”為標題的一組論文j中,特別上在他的《社會主義的前提和社會民主黨的任務》一書中,他表述了這種理論。這全部理論歸結起來實際上無非是勸大家放棄社會民主黨的最終目的即社會主義革命,而反過來把社會改良從階級鬥爭的一個手段變成階級鬥爭的目的。伯恩施坦自己最中肯地、最精確地表述了他的見解,他寫道:“最終目的無論是什麼對我說來都是微不足道的,運動就是一切”。

但是,既然社會主義的最終目的是唯一的決定性要素,它把社會民主主義運動同資產階級民主主義和資產階級激進主義區別開來,它把整個工人運動從用以挽救資本主義制度的無謂的修補工作變成反對這個制度的、為廢除這個制度而進行的階級鬥爭,那麼,伯恩施坦所理解的社會改良還是革命這個問題,對於社會民主黨來說,也是一個生死存亡的問題。同伯恩施坦及其追隨者辯論的問題,[黨內的每一個人必須弄清楚]k不是這種或那種鬥爭方式的問題,也不是這種或那種策略的問題,而是社會民主主義運動的存廢問題。

[如果匆匆忙忙考察一下伯恩施坦的理論,可能覺得這是誇大之詞。難道伯恩施坦沒有不斷提到社會民主黨和它的目的嗎?難道他自己沒有一再重複並明確表示,他也同樣謀求社會主義的最終目的,只不過是通過另一種方式嗎?難道他沒有特別強調他幾乎完全承認社會民主黨當前的實踐嗎?當然這一切都是真實的。但是,同樣真實的是,在理論發展和政策方面,任何新方針一開始總是以舊方針為依據,儘管新方針實質上同舊方針直接矛盾的,新方針首先適應它所遇到的形式,說已經說過的語言。隨著時間的推移新果實才會脫去舊外殼生長起來,新方針才會獲得自己的形式,自己的語言。

指望科學社會主義的反對派在一開始就明確地、徹底地表達出它的本質,指望它公開地、直率地否定社會民主黨的理論基礎,那就意味著低估科學社會主義的力量。誰今天還算作社會主義者而又同時又想向本世紀人類思想最偉大的成果馬克思主義學說宣戰,那他首先必須不自覺地尊敬它,他首先必須承認自己是這一學說的擁護者,在馬克思學說中尋找攻擊它的支撐點,並且宣稱這種攻擊是對馬克思主義學說的繼續發展。因此,人們應當不為這種表面現象所迷惑,揭露伯恩施坦的理論中隱藏著的內核,而這恰恰是我們黨內廣大的產業無產階級迫切需要做的事情。

理論上的爭論僅僅是“知識分子”的事,對於工人來說,沒有別的侮辱和誹謗比這更大更令人憤慨了。拉薩爾曾經說過:只要科學和工人這兩個社會中對立的兩極結合起來,它們就會掄起自己鋼鐵般的雙臂把一切文化障礙掃除乾淨。現代工人運動的全部力量就建立在理論認識上面。 j]

[但是],認識這一點[在目前]對於工人是特別重要的,因為這裡談論的問題正是他們和他們在運動中的影響問題,因為這裡正是拿他們的生命去冒險。伯恩施坦從理論上表述的黨內機會主義思潮不是別的,正是讓那些參加黨的小資產階級分子居上風,按他們的精神來改造黨的實際工作和黨的目的的一種不自覺的意圖。社會改良和革命的問題,最終目的和運動的問題,從另一方面看,就是工人運動的小資產階級性質還是無產階級性質的問題。

[正因為如此,為了黨的無產階級群眾的利益,我們必須積極地、深入了解目前同機會主義的理論爭論。只要理論認識仍然僅僅是黨內少數“知識分子”的特權,那它就總是有走上歧路的危險。一旦廣大工人群眾掌握了科學社會主義的銳利的、可靠的武器,那麼所有小資產階級傾向,所有機會主義思潮就會化為烏有。那時運動也會立於可靠的、堅實的基地上。 “群眾會去做。”

羅莎.盧森堡

1899年4月18日於柏林]



[由於黨內同志的多次建議,我們將《萊比錫人民報》上刊載過的兩組文章(第一組:第219—225期,1898年9月21—28日;第二組:第76— 78期,1899年4月4—8日)以小冊子形式重印出來。羅莎.盧森堡博士同志在這些文章中對伯恩施坦關於社會民主黨的策略和原則的觀點進行了詳盡的批評。其中第一組文章已經售缺,這些批評應該以此形式同更大的讀者見面,我們在附錄中將盧森堡同樣發表在《萊比錫人民報》(第42、43、44、47、和 48期,1899年2月20、21、22、25和26日)上關於民軍和軍國主義的文章也一併收入,以作為認識實踐中的機會主義思潮的必要部分。我們完全同意這個說明,也完全同意它對伯恩施坦文章的評論。

《萊比錫人民報》]

出版者前言j

考慮到對早已售缺的《社會改良還是革命?》一書的大量需要,我們出版了這本書的第二版。我們相信這樣做可以適應特別是最近在黨內明顯興起的理論問題的興趣,因為這本書以簡潔明瞭的形式論述了一系列具有長遠意義的原則的和科學的問題。作者對這本書作了很多適時的小修改,我們徵得作者的同意,除了反對伯恩施坦的論文以外,還增加了作者親筆寫的幾篇文章。這些文章論述的都是相關的問題,因此,在我們看來,它們組成了一個相互聯繫的整體。這樣,讀者可以在這本冊子裡看到從不同方面闡述的關於工資規律、危機、工會、合作社和社會改良等問題。

 

ã本文以1899年《萊比錫人民報》出版的文本為基礎。羅莎.盧森堡在1908年的新版本中所作的修改也包括在內。二版中補充的部分在腳註中加以說明,刪去的部分用六角括號([ ])標明。二版將“引言”改為第一部分。 “——1972年柏林德文版編者註(以下腳中二版改動部分一律不再標明1972年柏林德文版編者註——編者註

j愛德華.伯恩施坦《社會主義問題》載於1896——1897年《新時代》(斯圖加特)第15年卷第1冊第164—171、303—311、772—783頁;第2冊第100—107、 138—143頁——編者註

k二版將刪去的這名話改為“歸根到底”。

j參看費迪南德.拉薩爾《科學和工人》,《拉薩爾全集》1919年柏林德文版第2卷第276頁。 ——編者註

j二版的前言。






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第一部分ã
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一伯恩施坦的方法j

 



如果說,理論是外在世界印在人類頭腦中的反射k,那麼,對於伯恩施坦的[最新]理論無論如何得加上一句——往往是顛倒了的反射。 l伯恩施坦的理是在施杜姆—波扎多夫斯基時代m主張通過社會改良來實現社會主義的理論,是在英國機器製造工人失敗n之後主張由工會監督生產過程的理論,是在薩克森已經修改了憲法o國會選舉權遭到扼殺p之後主張社會民主黨在議會中爭取多數的理論!但是,伯恩施坦論述的重點,在我們看來,不是他關於社會民主黨的實際任務的見解,而是他關於資本主義社會客觀發展過程所說的話,當然,那些見解同這些話是有密切聯繫的。

按照伯恩坦的看法,資本主義本身的發展而發生總崩潰,看來越來越來不可能了。這是因為,一方面,資本主義制度越來越來表現出更大的適應性,另一方面,生產越來越分化。在伯恩施坦看來,資本主義的適應性表現在三個方面:第一,由於信用制度、企業主組織、交通和通訊工具的發展,普遍性危機消失了。第二,由於生產部產不斷分化,也由於無產階級中有一大批人提高到中間階層的地位,中間階層表現出頑強性。最後,第三,由於工會鬥爭的結果,無產階級的經濟地位和政治地位提高了。

由此可以對於社會民主黨的實際鬥爭得出一個一般結論;它的活動的方針不是去掌握國家政治權力,而是去改善工人階級的狀況,不是通過一次社會政治危機去實行社會主義,而是通過逐步擴大社會監督、逐步貫徹合作原則去實行社會主義。

伯恩施坦自己看不到他的議論中有什麼新的東西,他倒以為這些議論同馬克思和恩格斯的有些說法,同社會民主黨迄今為止所採取的總的方針曾經j是一致的。可是,在我們看來,[如果人們更深入地考察一下他的觀點的實質,那就]很難否認,它k實際上同科學社會主義的思路存在著根本的矛盾。

如果說伯恩施坦的全部修正歸結起來是認為資本主義的發展進程比人們通常設想的要慢得多,那麼,這實際上只是意味著把一貫人們所主張的由無產階級奪取政權推遲一些,因而在實際上頂多能夠得出鬥爭的速度應當放慢的結論。

但是,事情並不是這樣。伯恩施坦作為問題提出的,不是資本主義社會發展的速度,而是資本主義社會的發展進程本身,以及同這個發展進程有關的向社會主義制度過渡的問題。

如果說,到目前為止,社會主義理論認為,社會主義革命的出發點將是一個普遍的、毀滅性的危機。那麼,我們認為,必須在這裡把兩個東西區別開來:其一,這裡所包含的根本思想,其二,這些思想的外部形式。

這裡的一個基本思想是,資本主義制度本身將由於自身的矛盾使時使機成熟起來,那時它將崩潰,它將乾脆不可能生存。人們把這個時機設想成是一個普遍的、震動一切的商業危機的形式,是有他的充分的j理由的,但是,雖然如此,對於那個根本思想來說,這個形式總還是非本質的、次要的東西。

大家知道,社會主義的科學基礎是以資本主義的三個後果為依根的:第一是資本主義經濟不斷增長的無政府狀態,這使它的崩潰成為不可避免;第二是生產過程大踏步地走向社會化,這就替未來的社會制度創造了堅實的出發點;第三是無產階級不斷增長的力量k和階級覺悟,這是即將來到的變革的積極因素。

伯恩施坦所剷除的是上述科學社會主義基石中的第一個。他認為資本主義的發展不是走向一個普遍的經濟危機。

但是,這樣一來,他就不僅否定了資本主義滅亡的一定形式,而且也否定資本主義滅亡本身。他明確地說過:“可能有人回答說,我們就到當前社會的崩潰時,所想的不止是一次普遍的並且比以前更加猛烈的營業危機,也就是說,是指資本主義制度的由於它本身的矛盾而引起的全面崩潰。”關於這一點他答复說“目前的生產製度幾乎在同時完全崩潰,這件事隨著社會的向前發展,不是可能性更大了,而是可能性更小了,因為社會發展一方面提高了工業的適應能力,另一方面(或者與此同時)加深了工業的分化。”j

如果是這樣,那就產生了一個大問題:究竟我們為什麼能夠和怎樣能夠達到我們的奮鬥目標呢?從科學社會主義的觀點看來,社會主義的歷史必然性首先是從資本主義制度的不斷增長的無政府狀態中表現出來的,也是無政府狀態把這個制度趕進了一條死胡同。如果人們同意伯恩施坦的觀點,認為資本主義的發展不是走向自己的滅亡,那麼,社會主義也就不再是客觀上必然的事情了。於是,在作為社會主義的科學依據的基石中,就只剩下資本主義制度的另外兩個後果,即社會化了的生產過程和無產階級的階級覺悟。這點,伯恩施坦也是看到了的,他說:“社會主義的思想界(在廢除了崩潰論後——羅.盧.)決不會因此喪失絲毫說服力。因為仔細看來,我們上面列舉的消除或限制舊危機的一切因素到底是什麼呢?全都同時也是生產和交換社會主義化的前提,一部分甚至是它的發端。”k

只要稍微考慮一下,就可以證明這也是一個錯誤的結論。伯恩施坦把卡特爾、信用制度、交通工具的完善、工人階級生活狀況的提高等當做資本主義的適應工具,這些現象的意義何在呢?顯然是在於這些現象消除了或者甚至緩和了資本主義經濟內部的矛盾,防止了這些矛盾的展開和激化,由此可見,消除危機,就是指在資本主義的基礎上消除生產和交換之間的矛盾,而工人階級生活狀況的提高,——部分作為工人階級來提高,一部分上升到中間階層,——就是指資本和勞動之間的矛盾的緩和。可是,既然卡特爾、信用制度、工會等等消除了資本主義的矛盾,因而使資本主義免於滅亡,把資本主義保存下來,——因此伯恩施坦才把它們稱為“適應工具”,——那麼,它們對於社會主義又怎麼會同時表現為“前提,一部分甚至是發端”呢?顯然,這是就它們更強烈地表現出生產的社會性這一點上說的。但是既然它們使生產的社會性保持在它的資本主義j形式上,那麼反過來說,它們也就使社會化了的生產向社會主義過渡在同樣程度上成為多餘的了。因此,這些現象的表現為社會主義制度的出發點和前提,只是從概念上說是如此,而不是從歷史上說是如此。也就是說,根據我們關於社會主義的概念,我們知道這些現像是同社會主義有連帶關係的,但是事實上它們不僅不會帶來社會主義革命,反而把社會主義革命變成多餘的了。這麼一來,社會主義的依據就只剩下無產階級的階級覺悟了。但是,在這種情況下,階級覺悟也不是資本主義日益尖銳的矛盾和行將到來的滅亡在精神上的簡單反射k——因為這已經被適應工具防止了,——而只是一個理想,這個理想的說服力是以它自己賦予社會主義的完美性為依據的。

總之,我們在這條道路上得到的是社會主義綱領的一個出於“純知”的論據,即唯心的論據,而客觀的必然性,即出於物質的社會發民展進程的論據,卻消失了。伯恩施坦l理論面對著一個選擇:“非此,即彼。“要末社會主義改造一如既往產生於資本主義制度的客觀m矛盾,那麼,這個制度發展了,它的矛盾也就發展了,在某種形式上,在某一時候,崩潰就是結果。 n如果是這樣,那麼”適應工具“也是無能為力的,而崩潰論是正確的。要末”適應工具“真是這樣的東西,它們會防止o資本主義制度的崩潰,因而使資本主義能夠生存下去,使它的矛盾能夠消除,那麼,社會主義就不再是一種歷史的必然性,它就成為人們願意它怎樣就怎樣的東西,唯獨不是社會物質發展的結果。這個非此即彼的抉擇歸結起來是另一個:或者,伯恩施坦j對資本主義發展過程的看法是對的,那麼社會的社會主義改造就是空想,或者,社會主義不是空想,那麼”適應工具“就必然站不住腳。問題就在這裡。

 

ã這是對伯恩施坦發表在1896—1897年《新時代》上總標為“社會主義問題”的一組論文的評論。 ——盧森堡注

j二版改為“社會主義的方法”。

k二版改為“反映”

l二版改為“反映”

m二版改為“在德國的社會改良已經長眠之後”。卡爾.施杜姆男爵為德國大工業家,德皇威廉二世的朋友,德國國家黨的創造人和領袖;阿圖爾.波扎多夫斯基 ──魏納伯爵是1897—1907年間內務部國務大臣和副首相。他們都激烈反對工會和社會民主黨,主張採用暴力鎮壓工人階級。 ——編者註

n 1897年7月至1898年1月間,英國機器製造工人約七萬人為爭取8小時工作制舉行罷工。這次罷工儘管英國和德國工人給予強大的聲援,仍然遭到了失敗。 ——編者註

o 1896年3月27日薩克森實施選舉邦議會下議院的反動的三級選舉制。 ——編者註

p見本卷第36頁註1——編者註

j二版將“曾經”刪去。

k二版改為“伯恩施坦的見解”。

j二版改為“一定的”

k二版改為“組織”

j 《新時代》(1898—1899年)第18期555頁。 ——盧森堡注

k 《新時代》(1897—1898年)第18期第554頁。 ——盧森堡注

j二版未加著重號。

k二版改為“反映”。

l二版改“修正主義”。

m二版改為“內在”。

n二版在“結果”前面加“不可避免的”。

o二版改為“‘適應工具’真正能夠防止”。

j二版式改為“修正主義”。


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二資本主義的適應

 

在伯恩施坦看來,使資本主義經濟能夠適應的最重要的手段是信用制度、改善了的交通工具和企業的聯合組織。

先從信用說起,信用在資本主義經濟中有多方面的職能,但是大家知道,其中最重要的是增加生產力k的膨脹能力,充當交換的媒介和促進交換的進行。在資本主義生產要求無限擴張的內在傾向同資本主義的界限即私人資本的有限範圍l發生衝突的地方,信用就插進來,作為用資本主義方式衝破這個界限的手段,把許多私人資本溶合成一個資本——股份公司,並讓一個資本家能夠支配別人的資本——工業信用。另一方面,信用作為商業作信用加速了商品交換,也就是說,加速了資本回到生產的時間,加速了生產過程的整個循環。信用的這兩個職能對於危機的形成所起的作用是很容易看到的。既然,如大家所知道的,危機是從生產的膨脹能力和膨脹趨勢n同有限的消費能力之間的矛盾中產生的,那麼,照上面所說的情況,信用恰恰是使這種矛盾盡可能經常發作m的特殊手段。首先,信用把生產的擴張能力提高到極大程度,造成使生產不斷超越市場界限的內在動力。但它是從兩個方面進行的。如果它一度作為生產過程的因素召來了生產過剩,那麼,在危機過程中,它又作為流通手段j把自己喚起的生產力更加徹底地摧毀掉。銷路停滯的徵候剛剛露出苗頭,信用就緊縮了。在它不可缺少的地方卻拋棄了交換,在它還存在的地方卻證明自己不起作有和沒有用處,因而在危機過程中,把消費能力縮減到最低限度。

信用對於危機的形成,除了上述兩個最重要的後果外,還有許多影響。信用不僅向資本家提供了支配別人資本的技術手段,而且同時刺激資本家肆無忌憚地利用別人的財產,也就是說,去進行大膽的投機。它不僅作為不講信義的流通手段k使危機尖銳化,而且也使危機容易發生和擴大,因為信用把整個流通l變成了一個十分複雜的和人為的機構,只用最低限度的金屬貨幣作為現實的基礎,因而一個小小的刺激就會引起混亂。

可見,信用根本不是排除危機的手段,也不是哪怕減輕危機的手段,恰恰相反,它對於危機的形成倒是一個特別有力的因素。也不可能不是這樣。信用的特殊職能一般地說不外是消除一切資本主義關係中的穩定性m的殘餘,處處灌輸最大可能的彈性,把一切資本主義的能力n變成高度能夠擴展的、相互關聯的、敏感的能力。因此,危機這個無非是資本主義經濟中互相對抗的能力o的周期衝擊p,只能因信用而易於發生和加深,這是非常明顯的事。

這同時也把我們引到另一個問題一來了。信用一般說來怎樣才能表現為資本主義的“適應手段”呢?通過信用來達到“適應”,不論從什麼方面和用什麼形式來設想,它的本質顯然只能是平衡資本主義經濟的某種對立關係,消除或緩和它的某種矛盾,因而在某一點上把束縛住的力量解放出來。可是,在現代資本主義經濟中,如果有一種手段可以使它的一切矛盾發展到極端的話,這恰恰就是信用。信用加劇了生產方式和交換方式之間矛盾。因為它使生產變得極度緊張,而使交換稍為遇到什麼情況就陷於癱瘓。信用加劇了生產方式和占有方式之間的矛盾,因為它使生產脫離所有權,因為它使生產中的資本變成社會的資本,而利潤j則採取了純粹資本利息的形式k,也就是說,,變成了純粹的財產權名目。信用加劇了財產關係和生產關係之間的矛盾,因為它通過強力剝奪許多小資本家的辦法把巨大的生產力集中到少數人手中。信用加劇了生產的社會性和生產的私有性l之間矛盾,因為它使國家於預生產(股份公司)成為必需。

總而言之,信用把資本主義世界的一切主要矛盾複製出來,把它們引向荒廖絕倫的地步m,[它也暴露出資本主義世界本身的不足,]加快了它走向自己滅亡(崩潰)的速度n 。因此,在信用方面替資本主義尋找的第一個適應手段應當是廢除信用,撤消信用。像這樣的信用,決不是一個適應手段,而是具有高度革命作用的革命手段。正是信用的這種革命的、超越資本主義本身的性質,迷惑人們去製定塗上社會主義色彩的改良方案,使主張信用o的一些偉大代表,如馬克思所說的,變成一半是預言家,一半是無賴j。

經過仔細研究,資本主義生產的第二個“適應手段”——企業主聯合組織同樣也是沒有根據的k。在伯恩施坦看來,這些組織通過對生產進行調整可以結束無政府狀態,防止危機。當然,只有當卡特爾、托拉斯等變成近乎包羅一切、居於支配生產地位的生產形式的時候,才說得上通過企業主聯合組織防止資本主義無政府狀態。 l但是,卡特爾本身的性質排斥了這種情況的發生。企業主聯合組織的最終經濟目的和作用,就是在一個部門內部消滅在分配世界市場利潤方面的競爭,以便提高這個工業部門在世界市場上所得的份額。而這種組織要提高一個生產部門的利潤率,就只有犧牲別的部門的利益。因此,它恰恰不能成為普遍性的組織。如果它擴展到一切重要的工業部門,它的作用也就消失了。

然而,企業主聯合組織即使在它實際實現m的範圍內所起的作用,也是同消除工業無政府狀態恰恰相反的。卡特爾為了在國內市場達到上述提高利潤率的目的,通常用那部分為滿足國內需求還用還用不上的閒置資本為國外生產,所要求的利潤率要低得多。 n結果,在國外競爭加劇,在世界市場上出現更大的無政府狀態。就是說,同願望恰恰相反,在這方面,國際製糖業目前的狀況o就是一個例子。

最後,整個說來,企業主聯合組織這個資本主義生產方式的表現形式,只能被看作是資本主義發展的一個過渡時期、一定階段。的確是這樣!歸根到底,卡特本來就是資本主義生產方式的一個手段,是用來製止某些生產部門中利潤率的致命下降的。但是,卡特爾究竟用什麼方法來達到這個目的呢?從根本上來說,不過是把一部分積累起來的資本閒置起來,使用的方法同危機時是一樣的,不過形式不同而已。但是,這種藥方和疾病就像兩滴水那樣相似,j只能到一定時期用來治療小病。當銷售市場開始緊縮的時候k(不可否認,這樣的時機遲早會來到),把一部分資本強行閒置起來的情況就會發展到這種程度,以致使藥物轉化為疾病,使已經被這些組織大大社會化了的資本又重新變成了私人資本。儘管在銷售市場上為自己尋找一個小小的地盤的可能性日益減少,每個私人資,本部分寧願憑自己的本領去碰碰運氣。到那時候,這些組織必然同肥皂泡一樣破滅,而讓位於大大加強了的自由競爭。 l

因此,整個說來,卡特爾同信用一樣,也是一定的發展階段,它們歸根到底只能使資本主義世界的無政府狀態更為加劇,使它的一切內在j矛盾暴露出來並趨於成熟。它們使生產方式和交換方式之間的矛盾尖銳化,因為它們把生產者和消費者之間的鬥爭推到了極端。 k其次它們使生產方式和占有方式之間的矛盾尖銳化,因為它們使組織起來的資本的優勢力量l同工人階級對立起來,因而使資本和勞動之間的對立以最尖銳的方式加劇起來m

最後,它們使資本主義世界經濟的國際性和資本主義國家的民族性之間的矛盾尖銳化,因為它們使普遍的關稅戰爭成為必然伴隨的現象,因而使各個資本主義之間的對抗n達到極端。 o此外,卡特爾對於生產集中和技術改進等還有直接的、非常革命的作用。

因此,從其對於資本主義經濟的最後作用來看,卡特爾p不僅不是消除資本主義矛盾的“適應手段”,而恰恰是資本主義自己造成的加劇它固有的無政府狀態、暴露它內含的矛盾、加速它滅亡的一個手段。

但是,如果說,信用制度、卡特爾這一類的手段並不能消除資本主義經濟的無政府狀態,那怎麼會二十年以來沒有發生普遍的商業危機呢? q難道這不是一個標誌,說明資本主義生產方式至少在主要方面實際上“適應”著社會的需要,而馬克思所作的分析已經過時了嗎? r[我們相信,目前世界市場上的平靜可以用另一種方式來解釋。

人們習慣於把迄今為止發生的巨大的商業危機看作是馬克思用圖式分析的資本主義的舊危機。這種圖式的最好的證明似乎是大約十年一人生產週期。但是,我們認為,這種觀點是一種誤解。假如人們仔細考察一下迄今發生的一切巨大的國際性危機的各自不同的原因,他們就會相信,它們全部都不是資本主義經濟已經年老體弱的表現,倒不如說是表明它正處在幼年時期的表現。只要稍微思索一下就會立刻明白,在1825年、1836年和1847年,資本主義不可能造成像馬克思的圖式所描繪的那種週期性的、從完全成熟狀態中產生的生產力同市場界限的不可避免的衝突。因為那時資本主義在大多數國家正處在襁褓之中。 ]實際上,1825年的危機是大規模投資修築道路、開鑿運河和開設煤氣廠的結果。這些事情和危機一樣,主要是前十年間發生在英國。接著而來的1836— 1839年的危機,同樣是大量投資興建運輸工具的結果。 1847年的危機,大家知道,是英國狂熱地建築鐵路引起的(1844—1847年,也就是說,在三年期間,議會准許簽訂建築鐵路租讓合同價值約達十五億泰勒!)因此,在所有這三種情況下,危機都是由於以各種不同的形式從新建立社會經濟s、為資本主義發展奠定新基礎引起的。 1857年危機的發生是由於歐洲工業突然開闢了美洲和澳大利亞的新的銷售市場,而這又是因為發現了金礦,在法國尤其是因為了追隨英國的足跡大規模地興建鐵路(1852—1856年法國興建了新鐵路價值約十二億五千萬法郎)。最後,1873年的大危機j,大家知道,是德國和奧地利開辦大工業的直接後果,是這種大工業在1866年和1871年k的政治事變之後第一次獲得迅猛發展的直接後果。

因此,到現在為止,引起商業危機的原因,每一次都是因為資本主義經濟範圍的突然擴大,而不是因為它的活動範圍的縮小,也不是因為它的力量已經用盡,所以到目前為止發生的國際性危機十年一個週期,這純粹是表面的、偶然的現象l。馬克思關於危機形成的圖式,如恩格斯在《反杜林論》和馬克思在《資本論》第三卷m提出的圖式,之所以適用於迄今為止的危機,只是因為它揭示了一切危機的內在結構和它們的深刻的一般原因。 n[但是,整個說來,這個圖式更為適合於充分發展的資本主義經濟,在這裡世界市場被設想為現實的東西。只有這樣,危機才能採用那種機械的方式重複發生,這種危機,正如馬克思的分析中所設想的,產生於生產過程和交換過程的內在的、固有的運動,而不是由生產關係或交換關係中發生突然震動的外部原因引起的。如果我們想一想目前的經濟狀況,我們無論如何必須承認,我們還沒有達到像馬克思的圖式中所設想的那種發生週期性危機的資本主義成熟階段。世界市場仍然處在發展中。德國和奧地利在七十年代才進入真正大工業生產階段;俄國是在八十的代;法國到現在大部分還處於小規模生產階段;巴爾干各國相當大的一部分甚至還沒有擺脫了自然經濟枷鎖;只是到了八十年代,美洲、澳大利亞和非洲才同歐洲進行大規模的、經常的商品交換。因此,一方面,我們已經擺設了到七十年代為止週期性出現的那種對資本主義經濟新領域進行的突然的、跳躍式的開拓,擺脫了隨之而來的先前的危機,即所謂的年青的危機。另一方面,我們還沒有看到世界市場的發展和力量消耗已經達到如此程度,以致生產力同市場的框框將發生致命的周期性的衝撞,即發生資本主義的老年危機。我們正處在危機不再是伴隨著資本主義的繁榮昌盛而來的階段,而且也不是伴隨著資本主義的衰退而來的階段。這種過渡時期的特徵也就是二十年來一般表現出來的營業不景氣過程,即短期的繁榮同長期的蕭條交替出現。

但是,我們正在不停頓地接近於末日的開端即資本主義最後危機時期這一點,恰恰是從暫時規定危機還沒到來的那些現像中產生的。如果世界市場基本上已經飽和,不再可能由於突然的擴充而擴大,同時勞動生產率又在不可遏止地大幅度提高,那麼,生產力同交換的界限之間的衝突遲早就會到來,而且這種衝突由於反復發生會變得更尖銳、更加猛烈。如果有什麼東西特別適合於使我們接近這個時期,能夠迅速建立世界市場,又能很快使它力量耗盡,那麼這恰恰是伯恩施坦的資本主義的“適應手段”所依據的那些現象——信用制度和企業主聯合組織。 ]資本主義生產能夠使自己“適應”交換這個假設j,以下述兩種情況之一為前提:或者,世界市場不受限制地擴大以至無窮無盡,或者恰恰相反,生產力的增長受到阻礙,以致不會超出市場的框框。前者在物理上不可能,後者違反了這一事實,即技術革命正在一切生產部門一步一步地前進,每天都在喚起新的生產力。

在伯恩施坦看來,還有一個現像是同上面指出過的資本主義事物發展進程相矛盾的,這就是他向我們指出的中等企業這個“幾乎不可動搖的密集隊伍”。他在這裡看到了一個標誌,即工業的發展並不像按照“崩潰論”所應該期望的那樣,起那麼革命的和集中的作用。然而,他在這裡做了自己錯誤理解的犧牲品。如果人們以為隨著大工業的發展,中等企業就會逐步從地面上消失,那麼,這實際上是把大工業的發展完全誤解了。

小資本在資本主義發展的總過程中恰恰起著技術革命的作用k。而且這種作用表現在兩方面:一方面,在舊的、穩固的、深深扎了根的部門應用新的生產方法:另一方面,建立一些新的、還沒有被大資本所利用的生產部門。說什麼資本主義中等企業的發展l是沿著直線逐步走向滅亡的,這種見解是完全錯誤的。相反,實際發展過程在這也是純粹辯證的,是在矛盾中不斷運動著的。資本主義的中間階層,和工人階級一樣,也處在兩種對立趨勢的影響之下。一種是提高它的趨勢,一種是壓低它的趨勢。壓低的趨勢表現在:在這種情況下,生產規模不斷擴大,週期性地超過中等資本的生產力m,因而中等資本一再被拋到競爭之外。提高的趨勢表現在:現存資本的周期貶值使生產規模——就最低限度必需的資本的價值來說——在一定時候一再縮小。此外,也表現在資本主義生產進入新的領域。我們不能把中等企業同大資本的鬥爭想得和正規戰爭一樣,在這裡,軍隊中較弱的一方是直接在數量上日益減少的。也可以說是像割草,小資本被周期性地割短,而後它很快又長高,讓大資本用鐮刀來再割。這兩種趨勢好比在玩抓皮球的遊戲,資本主義的中間階層是個皮球,結果同工人階級的發展相反,最後總是壓低[它的]趨勢取得勝利。但是,這不一定表現為中等企業的絕對數量減少,而是表現在:第一,在舊的工業部門中,企業所必需的j最低限度的資本額逐漸增加了;第二,小資本獨立地利用新工業部門的時間越來越短了。因此,就個別小資本來說,生存期間越來越短,生產方法和投資方式的變動越來越快,就整個階級來說,社會代謝越來越快。

上面說的這一點,伯恩施坦知道得很清楚,他本人就確認過。但是,他似乎忘記了,這也就構成了資本主義中等企業發展k的規律本身。小資本既然是技術進步的先鋒,而技術進步又是資本主義經濟生命攸關的脈搏,那麼,小資本顯然是資本主義發展的不可分離的伴隨現象,它隨著資本主義的消失而消失。中等企業的逐步消失(在伯恩施坦所指的統計上的絕對總數的意義上)並不像伯恩施坦所認為的那樣,表示資本主義的革命發展進程,恰恰相反,它表示資本主義的發展停滯了,昏昏入睡了。 “利潤率即資本的相對增長率,對一切新的獨立形成的資本嫩芽來說,是特別重要的。只要資本的形成僅僅發生在某些。。。。。。極少數現成的大資本手中,使生產活躍的火焰就會熄滅。生產就會進入睡眠狀態。”l

[總之,伯恩施坦的適應手段被證明是毫無效用的,他認為是適應的徵候的那些現象應當歸之於完全不同的原因。 ]

 

k二版改為“生產”。

l二版改為“擴張能力”。

n二版改為“規模”。

m二版改為“擴張能力和擴張趨勢”。

j二版改為“商品交換的媒介”。

k二版改為“商品交換的不講信義的手段”。

l二版改為“交換”。

m二改為“固定性。”

n二版改為“力量”。

o二版改為“力量”。

p二版改為“衝突”。

j二版改為“利潤的一部分”。

k二版改為“採取了資本利息的形式”。

l二版改為“生產的社會性和資本主義的私有製”。

m二版改為“推動它們達到極端”。

n二版改為“過程”。

o二版在“主張信用”之前加了“像法國的伊薩克.貝列拉這樣的”。

j參看《馬克思恩格斯全集》第25卷第499頁。 ——編者註

k二版改為“站不住腳的”。

l二版在“只有當卡特爾。。。。。。前面增加了一段話:”從卡特爾和托拉斯多方面的經濟作用有來觀察它們的發展,這還是一個沒有被人們研究過的現象。這還是一個問題,只有運用馬克思的學說才能解決。但是無論如何下述一點還是明的“。

m二版改為“應用”

n二版在這句話後加了“就是說,它的商品在國外銷售時價格比國內低得多”。

o二版改為“國際製糖業的歷史”。

j二版改為“一模一樣”。

k二版改為“當世界市場發展到極限,其地盤已被相互競爭的資本主義各國占滿,因而銷售市場開始緊縮的時候”。

l二版式在這裡加了這樣一個注:恩格斯在1894年給《資本論》第3卷寫的一個腳註中說:“自從寫了上面這段話以來(1865年),由於一切文明國家,特別是美國和德國的工業的迅速的發展,世界市場上的競爭大大加劇了。迅速而巨大地膨脹起來的現代生產力,一天比一天厲害地超出了它們應當在其中運動的資本主義商品交換規律的範圍——這個事實,資本家本人今天也越來越強烈地意識到了。這一點特別表現在下述兩種徵兆中。第一,普遍實行保護關稅的新狂熱。這種保護關稅和舊的保護關稅制度的區別特別表現在:它保護得最多的恰好是可供出口的物品。第二,整個大生產部門的工廠主組成卡特爾(托拉斯),其目的是調節生產,從而調節價格和利潤。不言而喻,這種試驗只有在經濟氣候比較有利的時候才能進行。風暴一到來,它們就會被拋棄,並且會證明,雖然生產需要調節,但是負有這個使命的,肯定不是資本家階級。在此期間,這種卡特爾只有一個目的,那就是使小資本家比以前更快的被大資本家吃掉“(《馬克思恩格斯全集》第25卷第 137—138頁。

j二版改為“內部”。

k二版式在這句之後增加“就像我們特別是在美國所看到的那樣”。

l二版在這裡插入“以最殘酷的方式”。

m二版改為“達到了極端”。

n二版改為“對立”。

o二版全句改為“把各個資本主義國家之間的對立推到頂端”。

p二版加了“和托拉斯”。

q二版改為“怎麼會從1873年以來20年之久我們沒有看到普遍的商業危機呢?”。

r二版在這句話後面增加了這樣一段話:“答案緊跟著問題。伯恩施坦在1898年剛剛把馬克思的危機理論當作廢物拋掉,1900年就爆發了一個普遍性的劇烈的危機,而在七年之後即1907年,一個新的危機又從美國出發擴展到世界市場。因此,資本主義“適應”論早已被響亮的事實駁倒。同時這也證明,有些人只因為看到馬克思的危機理論兩次似乎到了‘支付日期’而沒有兌現就放棄了這個理論,他們把這個理論的核心同這個理論在形式上的非本質的表面的細節即十年一個週期混為一談了。馬克思和恩格斯在60年代和70年代把現代資本主義工業危機的周期定為十年,這只是簡單地陳述事實,這個事實並不是依據什麼自然規律,而是依據同年青的資本主義的作用範圍的跳躍式的擴展聯繫著的一系列確定的歷史情況。

s二版將“社會經濟”改為“資本的經濟”

j 1873年的公司倒閉導致了當時德國十九世紀最嚴重的周期性產生過剩危機,這一危機是由於1871年德國統一後在經濟迅猛發展的高潮中重工業和裝備工業的不成比例的發展造成的。 ——編者註

k 1866年6月15—8月23日奧地利為取得在德國的統治而發動的反對普魯士的戰爭的失敗,表明在由反動的普魯士自下而上統一德國的道路上出現了一個最重要的階段。戰爭的結局建立了南德意志聯邦。 1871年1月18日德意志帝國在凡爾賽宣布成立,結束了在普魯士領導下自上而下統一德國的行動。普魯士國王威廉一世成為德皇。這個新建立起來的民族國家由最反動的、最富於侵略性的階級即容克和大資產階級統治。 ——編者註

l二版這句話改為“至於那些國際性的危機恰恰都是十年重複一次,其本身純粹是表面的、偶然的現象”。

m二版改為“第1捲和第3卷”。

n二版改為“適用於一切危機,只是因為它揭示了它們的內在結構和它們的深刻的一般原因”。在這句話之後還增加這樣一段話:“而不管這些危機是十年一次、五年一次,還是交替出現,每二十年和八年一次。但是,最有說服力地證明伯恩施坦的理論缺乏根據的是這樣一個事實:最近的1907—1908年的危機恰恰在有名的資本主義”適應手段“——信用、通迅和托拉斯——最發達的國家鬧得最兇”。

j二版在這句話前加了“一般說來”。

k二版改為“恰恰按照馬克思所設想的那樣,起著技術革命的先鋒作用”。

l二版改為:歷史“。

m二版改為“範圍”。

j二版改為“企業生存所必需的”。

k二版改為“運動”。

l卡.馬克思《資本論》第3卷第1冊第241頁。 ——盧森堡注




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三通過社會改良實行社會主義



伯恩施坦否定了作為實現社會主義的歷史道路的“崩潰論”。那麼,按照“資本主義的適應論”的觀點來看,達到社會主義的道路究竟是什麼呢?對於這個問題,伯恩施坦的答复只是一種暗示,試圖按照伯恩施坦的思想詳細論述這個總問題的是康拉德.施米特j。按照他的說法,“為社會改良而進行的工會鬥爭和政治鬥爭”將帶來“對生產條件的日益加強的社會監督”,通過立法“限制資本所有者的權力,把他們一步一步降到管理者的地位”,直到最後,“資本家看到自己的財產對自己越來越沒有價值了,就可以清除脆弱不堪的資本家領導和管理生產的職務”,這樣,社會主義企業就可以最終建立起來。

可見,工會、社會改良,還有伯恩施坦補充的國家的政治民主化,這就是逐步實行社會主義的手段。

我們先從工會談起。工會最重要的職能(伯恩施坦自己七年前k就在《新時代》上解釋過,沒有人比他解釋得更好)l在於它是站在工人一邊實現資本主義工資規律即按照勞動力當時的市場價格出賣勞動力的手段。工會給無產階級提供的服務就在於使無產階級能夠隨時為了自己的利益利用市場的行情。這種行情本身包括:一方面是由生產情況決定的對於勞動力的需求;另一方面是由無產階級化j和自然繁殖造成的勞動力k的供給;最後,還有當時的勞動生產率水平。但是,這一切都處在工會的影響範圍之外。因此,工會不能消滅工資規律。工會在最好的情況下也只能讓資本主義剝削在當時“正常”的界限內進行,但決不能取消這種剝削,哪怕是逐步地取消也做不到。

當然,康拉德.施米特把現在的工會運動看作“軟弱的開始階段”,他相信將來“工會對生產本身的調節會發生越來越大的影響”。生產調節一詞,人們只能有兩種理解:第一是參與生產過程的技術方面,第二是決定生產本身的範圍。在這兩個問題上,工會的作用會具有什麼性質呢?顯然,在生產的技術方面,[單個]資本家的利益同資本主義經濟的發展和進步是完全l一致的。正是他們的急需推動他們去改進技術。相反,單個工人的立場卻是直接對立的:任何技術由於會使勞動力的價值貶值,m所以它同它直接涉及的工人的利益是矛盾的,會直接惡化工人的狀況。既然工會可以參與生產技術方面,那麼很明顯,它的參與只能在後一意義上,即代表直接有關的單個工人集團的利益來行動,這也就是反對革新。但是,在這種情況下,工會就不是代表整個工人階級和工人階級解放的利益來行動,因為這些利益同技術進步,也就同單個資本家的利益是一致的,因此恰恰相反,工會的行動是反動的。事實上,對於在生產的技術方面去發生影響的企圖,我們不是要到康拉德.施米特所追求的未來去尋找,而是要到工會運動的過去去尋找。這種企圖標誌著英國工聯主義的舊階段(到六十年代為止),那時,英國工聯主義還同中世紀行會的傳統聯繫著,典型地表現在它遵循“相應勞動的獲得權”j這個已經過時的原則。由工會決定生產範圍和商品價格的企圖,倒是最近出現的新現象k。我們最近才看到有這種企圖出現,而且又是在英國l。但是,這些企圖按其性質和趨勢同上面談的具有同樣的價值。那麼,工會積極參加決定商品生產的範圍和價格歸結起來應當是什麼呢?那就是工人同企業主結成卡特爾反對消費者,並且採取強制措施來反對與之競爭的企業主,這些措施同普通的企業主聯合組織採取的方法相比也毫不遜色。從根本上說,這已經不再是勞動和資本之間的鬥爭,而是資本和勞動力團結一致同消費社會鬥爭。從它的社會價值來看,這是一種反動的開端,不能構成無產階級解放鬥爭的階段,倒不如就恰恰代表了階級鬥爭的反面。從它的實踐價值來看,這是一種空想,稍微思索一下就可證明,它決不可能擴展到較大的和為世界市場而生產的一些部門中去。

因此,工會的活動主要限於進行工資鬥爭和縮短勞動時間,也就是說,僅僅限於根據市場狀況來調節資本主義剝削。至於影響生產過程,按照事物的本質來看,這仍然是工會不可能做到的。不僅如此,工會發展的整個進程的方向同康拉德.施米特設想的恰恰相反,是要使勞動市場完全脫離同其他商品市場的任何直接關係。這方面最典型的事實是,通過浮動工資表制度使勞動合同一般生產狀況至少消極地直接聯繫起來的企圖,現在已經落到事物發展的後面了,英國工聯越來越躲避這種作法m。

但是,就在工會運動事實上起作用的範圍之內,它也不像資本適應論所設想的那樣可以無限制地擴展。完全相反·!如果從社會發展較大範圍著眼,我們就不能掩蓋這樣的事實,就是總的說來,我們面臨的不是工會運動走向強大高潮的時代,而是工會運動走向沒落的時代j。如果工業的發展已經達到了頂點,資本在世界市場上開始走“下坡路”,那麼工會鬥爭還會加倍困難:第一,對於勞動力來說,客觀的市場面情況惡化了,因為同現在的情況相比,需求增加得要慢,而供給增加得要快。第二,資本本身為了彌補世界市場上的損失會奪回k已經歸工人的那部分產品。降低工資不正是阻止利潤率下降的最重要的手段之一嗎l!英國已經給我們提供了正在開始的工會運動的第二階段的圖景。在這裡,工會運動不得不日益單純地保護既得的成果,並且連做這件事也越來越困難。這就是上面所說的事物的一般進程。而在這一進程的另一方面和同它相關聯的東西m必然是政治的和社會的階級鬥爭的高漲。

在社會改良問題上,康拉德.施米特同樣犯了顛倒歷史前景的錯誤。他相信社會改良“同工會組織攜起手來給資本家階級訂出條件,根據這些條件才能利用勞動力”。在這樣理解社會改良的意義上,伯恩施坦稱工廠立法是一部分“社會監督”,既然是一部分“社會監督”,因而也是一部分社會主義。康拉德.施米特在談到國家的勞動保護的地方,總是使用“社會監督”一詞,他既然這樣巧妙地把國家變成了社會,他也就可以敢於補充一句:“這就是上升著的工人階級”;通過這樣的手法,德國聯邦議會通過的無辜的勞動保護條例就一變而成為德國無產階級的社會主義過渡措施了。

這裡的欺騙手法是一望而知的。今於的國家恰恰不是“上升著的工人階級”意義上的“社會”,而是資本主義社會的代表即階級國家。因此,它所安排的社會改良也不是一種“社會監督”,也就是說,不是自由勞動著的社會對自己的勞動過程的監督,而是資本的階級組織對資本的生產過程的監督。因此,在這裡,資本的利益,也就是社會改良的自然界限。當然,伯恩施坦和康拉德.施米特在這方面現在也僅僅是看到“軟弱的開始階段”,相信將來有一個有利於工人階級的、無限高漲的社會改良。可是,這樣一來,他就犯了同他們設想工會運動始終高漲j一樣的錯誤。

通過社會改良逐步實行社會主義的理論,是以一定的客觀發展為先決條件的,這裡既包括資本主義所有製的發展,也包括國家的發展,這是這個理論的重點所在。關於前者,康拉德.施米特設想的未來發展的圖式是:“限制資本所有者的權力,把他們一步步地降到管理者的地位”。他看到生產資料似乎不可能一下子突然剝奪,就準備了一個逐步剝奪的理論。為此,他想出了一個必需的條件,就是把所有權分為 “最高所有權”和使用權。 “最高所用權”賦予“社會”,他希望它不斷擴大。使用權留在資本家手中使之日益縮小為單純的管理權k。這種想法要末是一種無害的文字遊戲,不值得認真去考慮,這樣,逐步剝奪論就仍然是毫無根據的。要末它是一個關於權利發展的嚴肅圖式,那它就是完全錯誤的。把所有權分割為包含在其中的各種權限(康拉德.施米特在這裡給“逐步剝奪”論找了個藏身之所),是封建自然經濟的特色,在這裡,生產物在不同社會階級中的分配是採取實物形式,並且根據身份關係l來進行。在這裡,把所有權分割為各種不同的部分m,反映了事先決定的對社會財富進行分配的組織工作。隨著過渡到商品生產,隨著參加社會產生過程的人們之間的一切身份聯繫的消滅,人與物之間的關係(私有製)反倒鞏固起來了。由於分配不再是通過身份關係,而是通過交換來實現,所以對於參加社會財富的各種權利的計算,就不再是靠分割一個共同對象的所有權,而是靠各人帶到市場一來的價值。隨著中世紀城市公社中商品生產的興起,出現了權利關係的第一次突變,在所有權處於分割狀態的封建權利關係的娘胎裡,培植了絕對的、排他的私有製。但是,在資本主義生產中,這種發展在繼續進行j。生產過程越是社會化,分配過程就越是建立在純粹交換基礎上,私有製k就越是神聖不可侵犯和具有排他性。 l當資本家還是自己領導工廠的時候,分配總還在一定程度上同本人參加生產過程有聯繫。隨著廠主的親自領導日益變成多餘,而且在股份公司中已成為事實,資本所有權作為在分配中提出要求的名目就完全同生產中的個人關係相脫離m,以最純粹的、排他的形式出現。在股份資本和工業信用資本的形式中,資本主義所有權才達到充分成熟的地步。

康拉德.施米特關於歷史的圖式n,即“從所有者到單純的管理者”,是顛倒了的實際發展。這種發展正相反,從所有者兼管理者到單純的所有者。在這裡,歌德的詩句用在康拉德.施米特身上是很恰當的:

抓在手上的,看起來恍恍忽忽,

早已消失的,對他倒真真實實。

從經濟方面看,他的歷史圖式是人現代股份公司退到手工工場,甚至退到手工作坊。從法律上看也是一樣,是想從資本主義世界縮到封建自然經濟的蛋殼中去。

從這個觀點出發,那個“社會監督”也就同康拉德.施米特看到的不一樣了。今天當作“社會監督”起作用的,如勞動保護、對股份公司的監督等等,實際上同所有權的一份,同“最高所有權”毫無共同之處。它們的活動不是對資本主義所有權進行限制,相反倒是對它實行保護。或者用經濟學的語言來說,它們不是對資本主義剝削的干涉,而是對這種剝削的一種調節、安排。如果伯恩施坦提出這樣的問題:在工廠法中是否或多或少藏著一些社會主義,那我們可以回答他說,在市參議會關於清掃街道和點燃汽燈的規定中有多少“社會監督” ,在最好的工廠法中也就藏著多少“社會主義”。

 

j 1898年2月20日《前進報》學術副刊。伯恩施坦對於《前進報》關於他的觀點的評論,連一句不同意的話都沒有說,因此,我們更相信應當把康拉德.施米特的說明同伯恩施坦的說明聯繫起來加以考察了。 ——盧森堡注

k二版改為“伯恩施坦自己在1891年”。

l伯恩施坦《關於鐵的工資規律問題》第四節,結束語。載於《新時代》1890—1891年第9年卷第1冊第600—605頁。 ——編者註

j二版改為“中間階層的無產階級化”。

k二版改為“工人階級勞動力”。

l二版改為“在一定範圍內”。

m二版在這句話之後加了“使勞動更緊張,更單調,更繁重。”

j維伯《工會的理論和實踐》第2卷第100頁以下。 ——盧森堡注

k二版改為“一種新現象”

l維伯《工會的理論和實踐》第2卷第115頁以下。 ——盧森堡注

m同上

j二版改為“不是工會運動勝利發展勢力的時代,而是工會運動困難增加的時代”。

k二版在“奪回”前加了“越來越頑固地”。

l卡.馬克思《資本論》第3卷第216頁。 ——盧森堡注

m二版改為“在這一進程的背面”。

j二版改為“工會運動的力量的無限發展”。

k二版改為“對他的企業的單純管理權”。

l二版改為“領主和臣屬之間的身份關係”。

m二版改為“各種不同的局部權利”。

j二版改為“繼續前進”。

k二版在“私有製”前加了“資本主義”。

l二版在這句話之後補了一句話:“資本所有權就越是從一個對自己勞動產品的權利變成純粹佔有別人勞動的權利”。

m二版改為“完全同個人與生產的關係相脫離”。

n二版改為“象康拉德.施米特所描繪的資本家歷史發展的圖式”。




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四關稅政策和軍國主義



在伯恩施坦看來,逐步實行社會主義的第二個前提是國家發展成為社會。今天的國家是階級國家,這已經是常識。但是,在我們看來,這個命題與資本主義社會有關的所有一切命題一樣,不能固定地、絕對地去理解,而要在流動的發展中去理解。

隨著資產階級政治上的勝利,國家就成了資產階級國家。當然,資本主義發展本身使國家的本質有了重大的改變,因為它不斷擴大國家的作用範圍,不斷賦予國家新的職能,特別是經濟生活方面使國家的干預和監督成為必不可少的東西。在這個意義上,它為將來的國家同社會的溶合,即所謂國家職能歸還社會逐漸準備了條件。從這一角度也可以說資產階級國家在向社會發展。馬克思曾經說過勞動保護是“社會”對於它社會生活過程的第一次有意識的干預,伯恩施坦也引過這句話,毫無疑問,這句話也是在這個意義上說的。

但是,另一方面,也是由於資本主義的這一發展,國家的本質發生了另一種變化。首先,今天的國家是屬於統地位的資本家階級的組織j。如果國家為了社會發展的利益擔負了各種具有共同利益的職能,那隻是因為這些利益和社會發展同整個統治階級的一般利益是相符合的。而只有在這個限度內,國家才能擔負這樣的職能。例如,勞動保護對於作為一個階級的資本家來說,同對於整個社會來說一樣,都是同樣有直接的利益。但是,這種協調只繼續到資本主義發展的一定階段為止。如果發展已經達到一定高度,作為一個階級的資產階級的利益就同經濟進化k的利益甚至在資本主義意義上也開始分離了。我們相信這一階段已經到了,這一點表現在今天社會生活的兩個極重要的現像上:關稅政策和軍國主義。關稅政策和軍國主義在資本主義的歷史上曾經起過不可缺少的作用,在這個意義上,也就是起過進步的、革命的作用。在一些國家裡,如果沒有保護關稅,大工業的興起是不可能的。 l但是,今天的情況不同了。 m[在一切最重要的國家,特別是恰恰在那些極力推行關稅政策的國家,資本主義生產的水平幾乎是一樣的。 ]從資本主義發展的觀點來看,也就是從經濟的觀點來看,究竟德國向英國多出口商品還是英國向德國多出口商品,都是一樣的。從這一發展的觀點出發,摩爾完成了自己的工作,他可以走了。而且他必須n走了。現在各工業部門是互相依賴的,對某些產品徵收關稅,就會抬高國內其他商品的生產價值,也就是說,工業發展又受到束縛。但是,從資本家階級利益的觀點來看,就不是這樣了。工業為了自己的發展不需要關稅保護,但企業主卻需要關稅來保護他們的銷售。這就是說,關稅在今天已經不再是正在發展的資本主義生產對抗更成熟的資本主義生產的保護手段,而是成了一個民族資本集團用來反對另一個民族資本集團的鬥爭手段。其次,關稅作為形成和征服國內市場的工業保護手段已經不再有必要了,它倒成為工業卡特爾化的一個不可缺少的手段,也就是說,成為資本主義生產者同消費者的社會進行鬥爭的不可缺少的手段。最後,最鮮明地表現出今天關稅政策特徵的事實的,現在在關稅政策中到處決定作用的根本不是工業,而是農業,也就是說,關稅政策已經變成將封建利益注入資本主義形式並且用來表現封建利益的手段了。

軍國主義也發生了同樣的變化。如果我們不是用本來可以怎樣或應該怎樣的眼光看歷史,而是根據它事實上怎樣來看歷史,那麼我們必須承認,戰爭曾經是資本主義發展不可缺少的因素。美國和德國、意大利和巴爾幹半島、俄國和波蘭,所有這些國家都是從戰爭中獲得了資本主義發展的條件或推動的,不管它們勝利或失敗,情況都一樣。只要有這樣的國家,其國內還有分裂狀態或者自然經濟的閉塞狀態需要克服,軍國主義也就是起著資本主義意義上的革命作用。今天這方面的情況也不同了。 [軍國主義已經不再有地盤為資本主義開拓了。 ]如果中國已經成為可怕的衝突舞台,那麼,問題與其說在於為歐洲資本主義開拓中國,不如說在於把現成的歐洲對立移植到中國並在中國土地上赤裸裸地暴露出來而已。 j今天無論在歐洲或世界其他部分,手持武器互相對抗的,不是一方是資本主義國家,另一方是自然經濟的國家,而恰恰是由於資本主義發展達到同樣高的水平而迫使發生衝突的那些國家。對於這種發展本身來說,這一沖突在這種情況下一旦爆發,就自然只能具有致命的意義,因為它將[在這一次完全無目的地]給一切資本主義國家的經濟生活帶來深刻的震動和變革。但是,從資本家階級的觀點來看,事情並非如此。今天,軍國主義對於他們來說已經成為不可缺少的東西。這表現在三個方面:第一,它是正在競爭的“民族”利益反對其他民族集團的鬥爭手段;第二,它無論對於金融資本或工業資本都是最重要的投資形式;第三,它是用來反對勞動人民的國內階級統治的工具。這一切利益同資本主義經濟發展本身j是毫無關係的。而最好地暴露今天軍國主義的這一特殊性質的,首先是軍國主義在一切國家中因競賽而普遍高漲,即所謂受本身內在的機械動力的推動而普遍高漲。這是一、二十年前還沒有的現象。其次是日益臨近的爆發的不可避免的性質,命定的性質,但同時它的原因、首先涉及的國家、爭執的對象及其他說情卻還完全不能確定,軍國主義從資本主義發展的一個發動機k變成了資本主義的疾病。

在前面所說的社會發展同統治階級的利益的衝突中,國家是站在統治階級一邊的。國家同資產階級一樣,在政策上同社會發展處於對立的地位,因而它日益喪失整個社會代表的性質,在同一程度上,它日益變成純粹的階級國家,或者說得確切些,國家的兩種特性彼此分離了,矛盾尖銳化了,日益發展成為國家本質內部的矛盾。而且這種矛盾將越來越尖銳化。因為,一方面,國家的一般職能、國家對社會生活的干預、國家對社會生活的“監督”增長了。但是,另一方面,它的階級性質總是迫使它把它的活動重點和力量手段放在只對資產階級的階級利益有用而對社會只有消極意義的領域,即放在軍國主義、關稅政策和殖民政策上。其次,由於這種情況,它的“社會監督”也就越來越為階級性質所滲透和支配(可以看看[除英國以外的]所有國家的勞動保護措施)。

上面所說的國家本質方面的變動,同伯恩施坦當作逐步實行社會主義的手段的民主主義並不矛盾,不如說,倒是完全符合的。

康拉德.施米特說過,社會民主黨在議會中取得多數甚至是社會的這種逐步社會化的直接道路。毫無疑問,政治生活的民主形式是最清楚地表明國家向社會發展的一種現象,在這個限度內,它構成了走向社會主義變革的一個階段。但是,我們上面描述過的資本主義國家本質中的那種矛盾卻極其鮮明地表現在現代民主制j中。固然,從形式上看,民主制k是用來在國家組織中表現整個社會的利益的。但是,另一方面,它所表現的仍然只是資本主義社會,資本主義利益起決定作用的社會。因此,就形式說是民主組織,就內容說變成了統治階級利益的工具。這上點極其明顯地表現在下述事實上;只要民主制一有否定階級性質、變成事實上的人民利益工具的傾向,民主形式本身就會被資產階級和它的國家代表所犧牲。在這種情況下,社會民主黨在議會中取得多數的思想就是一種盤算l,只考慮到民主的形式上的一面,而完全忽視了它的另一面即它的實在內容。民主制m整個說來不像伯恩施坦所設想的那樣,是逐漸滲透到資本主義社會中的直接的社會主義因素,相反,它是使資本主義的對立趨於成熟和發展起來的資本主義的特殊手段j

由於國家的這種客觀發展,伯恩施坦和康拉德.施米特關於“社會監督”的發展會直接帶來社會主義的信條,就成了與現實日益矛盾的空話。

逐步實行社會主義的理論歸結起來就是:逐步[以社會主義制度為方向]k,對資本主義所有製和資產階級國家進行改良。可是,由於現代社會的客觀進程,這兩者恰恰是朝著相反的方向發展的。生產過程越來越社會化,而國家對這個生產過程的干預和監督越來越廣泛。但是與此同時,[資本主義]私有製越來越牢固和不可侵犯 l,國家監督越來越為排他的階級利益所滲透。因此,國家即資本主義的政治組織,和所有權關係即資本主義的權利組織,隨著發展越來越成為資本主義的,而是越來越成為社會主義的。它們向逐步實行社會主義的理論提出了兩個不可克服的困難。

傅立葉想用他的法倫斯泰爾m制度把地上的海水[一下子]變成檸檬汁,真是異想天開。但是,伯恩施坦想把資本主義的苦難的海洋加進一瓶社會改良的檸檬汁就把它變成社會主義的甜蜜的海洋,這種想法不僅更荒唐,其異想天開的程度也毫無遜色。

資本主義社會的生產關係越來越走向社會主義,而它的政治關係和權利關係則相反,它們在資本主義社會和社會主義之間築起了一堵越來越高的牆。這堵牆靠社會改良和民主的發展是打不通的,相反,它會因此更高更牢固n。要打垮這堵牆,只有靠革命的鐵鍾即由無產階級奪取政權。

 

j二版改為“一個組織”。

k二版改為“經濟進步的利益”。

l二版改為“幾乎是不可能的”。

m二版在這句話後面增加了一段話:“今天,保護關稅不是用來扶植年輕工業使其成長,而是用來人為地保持過時的生產形式”。

n二版“必須”加了著重號。

j二版改為“如果世界政策已經變成可怕的衝突舞台,那麼,問題與其說在於為資本主義開拓新的國家,不如說在於把現成的歐洲對立移植到世界其他部分並在那裡暴露出來而已”。

j二版改為“同資本主義方式進步本身”。

k二版改為“動力”。

j二版改為“現代議會制”。

k二版改為“議會制”。

l二版在“一種盤算”前加了“完全以資產階級自由主義精神作出的”。

m二版改為“議會制”。

j二版改為“資產階級階級國家的一種特殊手段”。

k二版改為“以社會主義精神”。

l二版改為“越來越變成對別人勞動的赤裸裸的資本主義剝削形式”。

m按照法國空想社會主義者沙.傅立葉的學說,這是理想的社會主義社會中生產消費協作社的成員工作和居住的地方。 ——編者註

n二版改為“更牢固更結實“。




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五理論j的實際結論和一般性質



我們在第一部分k想說明,伯恩施坦的理論是要把社會主義綱領從物質基礎上舉起來,放到唯心主義基礎上去。這是涉及理論根據的問題。那麼這個理論應用到實際工作中又是怎樣的呢?最初看來,在形式上它同社會民主黨的鬥爭迄今為止的通常的實際工作並無區別。工會、爭取社會改良和政治設施民主化的鬥爭,這也就是通常構成社會民主黨活動內容l的東西。因此,區別不在幹什麼,而在於怎麼幹。從現在的實際情況看,工會鬥爭和議會鬥爭被看作是逐步引導和教育無產階級走向奪取政權的手段。按照伯恩施坦m的見解,既然奪取政權沒不可能、沒有益處,這種鬥爭應該只是為了取得直接的結果,也就是說,為了提高工人的物質生活,為了逐步限制資本主義剝削和擴大社會監督。如果我們把直接提高工人生活這一目的撇開不談(因為在這點上黨內的普通觀點和伯恩施坦n的觀點是一樣的),那麼,全部區別可以歸結為:按照伯恩施坦的觀點,工會鬥爭和政治鬥爭的社會主義意義就是為了實現社會主義,把無產階級即社會主義革命的主觀因素準備好。按照伯恩施坦的觀點,它們的社會主義意義在於,工會鬥爭和政治鬥爭可以逐步限制資本主義剝削本身,去掉資本主義社會的資本主義性質,賦予它社會主義性質,一句話,在客觀的意義上實現社會主義變革。仔細觀察一下,這兩種甚至是截然相反的。用黨內普通的觀點來看,通過工會鬥爭和政治鬥爭可以使無產階級深信o,通過這些鬥爭切切實實改善j它的狀況是不可能的,最後奪取政權則是不可避免的。用伯恩施坦的觀點來看,奪取政權是不可能的,從這一前提出發,通過單純的工會鬥爭和政治鬥爭可以實行社會主義制度。

因此,在伯恩施坦看來,工會鬥爭和議會鬥爭的社會主義性質,在於相信它們對資本主義經濟逐步社會主義化的作用。但是,這種作用,正像我們力圖說明過的那樣,在事業上純粹是妄想k,資本主義的所有製和國家製度,是朝著相反的方向發展的。但是這樣一來,社會民主黨的日常實際鬥爭歸根到底也就同社會主義沒有任何關係了。工會鬥爭和政治鬥爭的偉大社會主義意義在於它們使工人階級的認識和意識社會主義化 l。當人們把它們理解為直接使資本主義經濟社會主義化的手段時,它們不僅喪失了它們所捏造的作用,同時也喪失了其他[唯一可能的社會]意義,即它們不再是教育工人階級去進行無產階級革命m的手段了。

因此,伯恩施坦和康拉德.施米特自己安慰自己說,即使把鬥爭轉移到 n社會改良和工會鬥爭方面,也不會使工人運動喪失最終目的,因為在這條道路上每前進一步都會引出後一步,所以社會主義目的作為一種趨勢也包含在運動本身之內。這種說法是建立在完全錯誤的理解之上的。就德國社會民主黨當前的策略來說,如果在進行工會鬥爭和社會改良鬥爭之前有一個奪取政權的自覺的堅定的意圖作為指路明燈的話,這當然是完全正確的。可是,如果人們把這種預先確定了的意圖同運動分離,首先把社會改良當做目的本身,那麼,[事實上]社會改良不僅不能導致實現社會主義的最終目的,而且還會達到相反的結果。康拉德。施米單純地相信所謂一發不能自止的機械運動,他以“越吃越想吃”這個簡單的諺語為依據,認為工人階級不完成社會主義變革,就決不會對改良心滿足。後面的這一假設當然是對的,而且資本主義社會改良本身的缺陷已經向我們證明了這一點。但是,只有在能夠創造一個鏈條般的連續不斷的、日益發展的社會改良把今天的製度j直接引向社會主義[制度]的條件下,由此得出的結論才是正確的。然而這是一種空想。這個鏈條按照事物的本質很快就要斷了,到那時運動從這一點出發所採取的途徑就會是多種多樣的。

到那時,最直接最可能的結果是在策略上作一些改變,以便用一切辦法實現鬥爭的實際成果即社會改良。一旦直接的實際結果成為主要目的,那種只對致力於奪取政權有意義的不調和的、嚴峻的階級立場就會越來越變成一種消極力量k。因此,下一步就是補償政策l和迎合遷就m的政治家的明智態度。但是,在這種條件下,運動也不可能經常保持平衡n。因為社會改良既然在資本主義世界始終是而且現在仍然是一個空殼,那麼不管人們採取什麼策略,下一步在邏輯上就會是對社會改良產生失望了。這也就是說,對施穆勒o之流p正在停泊的避風港失望了。他們在社會改良的大海上漫遊之後,已經決定讓一切聽天由命q。由此可見,社會主義決不是在工人階級的日常鬥爭作為一種趨勢所固有的,它在這裡只能是資本主義經濟日益尖銳化的客觀矛盾所固有的,也是工人階級主觀上認識到絕對必須用革命手段來消滅這些矛盾所固有的 r。如果象伯恩施坦在他的理論中所做的那樣s,不承認前者,又拒絕後者,那麼運動j就會起先降低為簡單的工會活動和社會改良活動,並且由於本身的重力最後落到放棄階級立場的地步。

如果我們從另一方面來看看伯恩施坦的理論k,並且提出一個問題:這個觀點的一般性質是什麼?那麼上述那些結論也是很清楚的。伯恩施坦l顯然不是站在資本主義關係的基地上的,不是同資產階級經濟學家一道否認資本主義的矛盾的。相反,他在理論上也和馬克思的觀點一樣,是以這種矛盾的存在為前提並以此為出發點的。但是,另一方面,他在理論上的依據不是認為消滅這些矛盾要通過自己本身的徹底發展。這一點是他的見解m的一般核心,也是同迄今為止普通的社會民主黨的觀點的根本分歧所在。

他的理論處於兩個極端之間,他不願意[讓]矛盾j發展到完全成熟,通過革命的突變在矛盾的尖端消滅j矛盾,而是寧願折斷矛盾的尖端,緩和矛盾。因此,[按照他的理論],危機的終止和企業主聯合組織的建立應該緩和生產與交換之間的矛盾,無產階級狀況的改善和中間階層的繼續存在應該緩和資本與勞動之間的矛盾,社會監督的發展和民主制的發展應該緩和階級國家和社會之間的矛盾。

當然,普通的社會民主黨的策略也不是說人們等待資本主義矛盾發展到極端並且到那時才發生突變。相反,人們只是依靠l已經存在的m發展方向,但是要在政治鬥爭中使它的後果發展到極端,[人們預見到這種發展,人們可以說是打折扣預支進一步的客觀發展,並且在任何時候者站在使發展了的矛盾完全成熟的基地上,]這是任何革命策略一般具有的本質。因此,例如对于关税和军国主义来说,社会民主党即使在它们在资本主义发展中还起着革命作用的时候也要与之斗争n。但是,伯恩施坦的策略根本不是建立在資本主義矛盾的進一步發展和尖銳化上面,而是建立在矛盾的緩和上面。他在談到資本主義經濟的“適應”時於這上點說得十分清楚。這種觀點什麼時候才會是正確的呢?今天的社會的一切矛盾只不過是資本主義生產方式的產物。如果我們假定這種生產方式還要繼續朝著迄今已知的方向發展,那麼,它的一切後果必然會不可分割地同它一起向前發展,也就是說,矛盾將會尖銳化而不是緩和。因此,反過來說,矛盾的緩和是以資本主義生產方式本身的發展遇到阻礙為前提的。總之,伯恩施坦理論的最一般的前提是資本主義發展的停止。

`但是這樣一來,這個理論也就自己對自己作了判決,而且這種判決有兩個方面:第一,在社會主義最終目的方面,這個理論暴露出空想性質(顯然,發展停滯的資本主義是不可能引向社會主義革命的),我們對於這個理論的實際結論所作的說明證明了這上點。第二,從資本主義事實上在迅速發展來看,這個理論暴露了它的反動性質。這也就提出了一個問題:既然資本主義的實際發展是這樣的,那麼怎樣解釋,或者也可以說,怎樣說明伯恩施坦理論觀點的特徵呢?

伯恩施坦在他對於今天社會關係的分析中用來作為出發點的經濟前提,即他的資本主義“適應”論,是站不住腳的,這一點我們相信在第一章中已經說清楚了。我們看到,不論信用制度還是卡特爾,都不能作為資本主義的“適應手段”,不論危機的停止j和中間階層的繼續存在,都不能理解為資本主義的適應性象徵。但是,上面所說的適應論的一切細節(姑且不論它們的直接錯誤),是有一個共同的特徵為基礎的。這個理論把它所研究的一切經濟生活現象,不是放在它們對整個資本主義發展的有機部分去理解,不是放在它們同整個資本主義的經濟機構的關聯上去理解,而是把它們從這些聯繫中割裂開來,當作獨立的存在,當作一部死機器的拆散的零件。例如,對於信用的適應作用的理解就是這樣。如果人們把信用看作是交換的一個自然發展的更高階段,而且同資本主義交換所固有的一切矛盾有聯繫,那就不可能把信用看作似乎是什麼處於交換過程之外的機械的“適應手段”。正像不能把貨幣本身、商品和資本看作資本主義的“適應手段”一樣。但是,信用也是資本主義經濟的一定發展階段的有機的一環,在這一點上,它毫不亞於貨幣、商品和資本。在這個階段上,它也同它們一樣,既是資本主義經濟機器中的一個齒輪,也是一個破壞工具,因為它加劇了資本主義經濟的內在矛盾。

對於卡特爾和完善的交通工具來說,情況也是一樣。

伯恩施坦把危機的停止看作是資本主義經濟“適應”的徵候,這同樣表現出他的機械的、非辯證的理解方法。在他看來,危機不過是經濟機器中的故障,如果危機停止了,這部機器就可以正常地運轉。但是,危機事實上不是平常意義上的“故障”,倒不如說,它是一種故障,但沒有它整個資本主義經濟就無法進行。危機,簡單說來,只有在資本主義的基礎上才可能發生,因此它是周期地解決生產力的無限的發展能力和實現的狹小的框子j之間的矛盾的完全正常的方法,只要這是事實,那麼,危機就是資本主義經濟整體的不可分割的有機的現象。

在資本主義生產“無故障“的進程中反倒存在著一種比危機本身更大的危險。這就是利潤率的不斷下降。它不是由生產與交換的矛盾產生的,而是由勞動生產率的發展本身造成的。利潤率的不斷下降有一個最危險的趨勢,就是它使一切中小資本的生產成為不可能,因而限制了新的投資的形成和進步。在這同一過程中作為另一個結果產生出來的危機,由於它週期地使資本貶值,由於它使生產資料變得使便宜和使一部分活動中的資本停頓下來,恰恰是它反倒起了提高利潤率的作用,因而為生產中新的投資和新的進步開闢了場所k。所以危機好像是使資本主義發展之火重新旺盛起來的一個手段,而危機的停止(如果不是像我們所設想的那樣在世界市場成長中的一定階段l停止,而是根本不出現危機)就會不是像伯恩施坦所設想的那樣不久會使資本主義經濟興旺發達,而會把它直接帶到泥潭中去。構成整個適應論的特色的機械的理解方法,使伯恩施坦既看不到危機的積極意義,也看不到資本的分散趨勢j。除了其他原因之外,這是因為在他看來小資本的不斷復活是資本主義停滯的標誌,而不是事實上的資本主義的正常發展。

當然,有這樣一個觀點,按照這個觀點,上面所講的一切現象實際上就像適應論k所描述的那個樣子,這就是單個資本家的觀點,他們了解的經濟生活的各種事實是被競爭規律所歪曲了的。單個資本家首先事實上把經濟整體中的每個有機組成部分看作完全獨立的東西。其次,他只是從對他,即對個別資本家發生作用的那一面來看,因此把它看成單純的“故障”或單純的“適應手段”。對於個別資本家來說,危機實際上只是故障,而危機的停止可能保證資本家延長壽命;對他來說,信用同樣是他不充分的生產力“適應”市場需要的手段;對他來說,他所參加的卡特爾實際上也消除了生產的無政府狀態。

總之,伯恩施坦的適應論不過是單個資本家的理解方法的理論概括。但是,難道這種理解方法在理論表述上沒有表現出庸俗經濟學的實質的特點嗎?這個學派在經濟學上的一切錯誤,正是建立在把個別資本家眼中的競爭現象當作資本主義經濟整體現象的錯誤的理解上。例如,正像伯恩施坦把信用看作“適應手段”一樣,庸俗經濟學也把貨幣當作對市場需要的巧妙的“適應手段”一樣,它也是從資本主義的現象本身尋找治療資本主義病症的解毒藥,它同伯恩施坦一樣,也相信調節資本主義經濟的可能性,最後,歸根到底,它也同伯恩施坦的理論一樣,總是想緩和資本主義的矛盾,給資本主義的傷口貼膏藥。換句話說,它採取的是反動的而不是革命的方法,因此是一種空想。

因此,伯恩施坦j的全部理論可以概括為這樣一句話:這是符合庸俗經濟學精神的以資本主義停滯論為依據的社會主義停滯論。

 

j二版改為“修正主義“。

k二版改為“第一章“。

l二版改為“形式上的內容“。

m二版改為“修正主義“。

n同上

o二版改為“無產階級通過工會鬥爭和政治鬥爭可以深信”。

j二版改為“從根本上改變”。

k二版改為“幻想”。

l二版改為“使無產階級的認識和意識社會主義化,把無產階級作為階級組織起來”。

m二版改為“去實行無產階級奪取政權”。

n二版改為“即使把全部鬥爭局限於”。

j二版改為“把今天的社會制度”。

k二版改為“單純的障礙”。

l二版改為“‘補償政策’(用正確的德語說是賄賂政策)”。

m二版改為“調和讓步”。

n二版改為“長久停留”。

o二版加了“教授”。

p指古斯塔夫.施穆勒、阿道夫.瓦格納和路.布倫坦諾。他們都是講壇社會主義的代表人物,在思想上反對馬克思主義和社會民主黨。 ——編者註

q二版在這裡加了一個注:“1872年,瓦格納、施穆勒、布倫坦諾等教授在愛森納赫召開了一次大會,大張旗鼓地宣布他們的目的是實行社會改良以保護工人階級。這些被自由黨人奧本海姆諷刺地稱為‘講壇社會主義’的先生們不久之後建立了‘社會改良同盟’。幾年後,在反對社會民主黨人鬥爭尖銳化的時候,這些‘講壇社會主義’的鼓吹者以議員資格投票擁護延長反社會黨人法的期限。此外,這個同盟的全部活動就是常年開大會。在會上以各種題目宣讀一些學術性報告。其中關於經濟問題的論著已由該同盟出版了100多部。這個同盟最後連社會改良也放棄了,而從事研究危機、卡特爾之類的問題去了”。

r二版將這句話改為“社會主義決不是在任何環境下自發地從工人階級的日常鬥爭中產生出來的,它的產生是資本主義矛盾日益尖銳化的結果,也是工人階級認識到絕對必須用革命手段來消滅這些矛盾的結果”。

s二版改為“如果象修正主義那樣”。

j二版改為“工人運動”。

k二版改為“修正主義理論”。

l二版改為“修正主義”。

m二版改為“觀點”。

j二版改為“資本主義矛盾”。

k二版未加著重號。

l二版改為“我們只是依據”。

m二版改為“已經認識的”。

n二版改為“社會民主黨在任何時候都要進行鬥爭,不是等到它們的反動性質完全暴露時再進行鬥爭”。

j二版改為“暫時停止”。

j二版改為“生產的無限擴展能力和銷售市場的狹小的框子”。

k二版改為“地盤”。

l二版改為“不僅是在世界市場成長中的一定時期”。

j二版改為“既看不到危機是不可缺少的,也看不到中小資本週期性的不斷增長的投資也是不可缺少的”。

k二版“適應論”三字加了雙引號。

j二版改為“修正主義”。





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第二部分ã
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一經濟發展和社會主義



無產階級的階級鬥爭在發展過程中獲得的最大成就是在資本主義社會的經濟關係中發現了實現社會主義的出發點。由於這一發現,社會主義就從幾千年來人類模模糊糊憧憬的“理想”變成了歷史的必然。

伯恩施坦否認在現代社會中存在這種社會主義的經濟前提。在這個問題上,他的論證經歷了一個有趣的發展。最初,在《新時代》雜誌上,他只是否認工業集中的速度,他依據的是1895年和1882年德國工業統計對比材料。而為了利用這個材料來達到自己的目的,他不得不採用純粹累計的和機械的方法。但是,即使在最順利的情況下,伯恩施坦用他關於中等企業頑強性的論證也絲毫不能損害馬克思主義的分折。因為這個分析既沒有把工業集中的一定速度即實現社會主義最終目的的一定期限作為實現社會主義的先決條件,也沒有把我們已經指出的過的[第17頁k]小資本的絕對消失或小資產階級的消失作為實現社會主義的先決條件。

伯恩施坦在書中進一步發揮自己觀點的時候引證了新的證明材料,這就是股份公司的統計材料。他以為統計材料表明股東在不斷增加,因此資本家階級不是減少了,而相反地越來越增加了。伯恩施坦多麼不熟悉這些材料,多麼不懂得為了自己的利益運用這些材料,真是令人吃驚!

如果他真的想用股份公司證明什麼違反馬克思的工業發展規律的東西,他本來應該使用別的材料。每個了解德國股份公司歷史的人都知道,平均投入每個企業的創業資本幾乎是不斷減少的。這種資本在1871年以前約一千零八十萬馬克,1871年只有四百零一萬馬克,1873年三百八十萬馬克,1883—1887年不到一百萬馬克,1896年只有五十六萬馬克,1882年六十二萬馬克,從那時以來,總額在一百萬馬克上下擺動,但它又從1895年的一百七十八萬馬克降到 1897年上半年一百一十九萬馬克了。 j

多麼驚人的數字!伯恩施坦大概會利用這個數字製造一個由大企業退回到小企業的完全反馬克思的趨勢了。但是在這種情況下任何人都會反駁他說,如果你想用這個統計材料證明什麼,那你就必須首先證明,這些統計材料指的是同樣的工業部門,在這些部門中小企業代替了原來的大企業,而小企業不會在當時還沒有企業k或有作坊或有細小企業的地方出現。但是你是無法作這樣證明的,因為大股份公司過渡到中小股份公司只能用股票業務不斷滲入新的部門來解釋,而且如果在開始時它只適用於少數大企業,那麼現在越來越適用於中等企業,有些地方甚至適用於小企業了。 (用一百馬克以下建立的股份公司也出現了!)

但是,股票業務的不斷擴大在國民經濟方面意味著什麼呢?它意味著在資本主義形式上生產社會化向前發展了,不僅大生產社會化,中等的甚至小生產也社會化了,這也就是說,這種現像不僅不同馬克思的理論相矛盾,而且是這一理論的可以想像到的最輝煌的證明。

的確是這樣!發行股票這種經濟現象的內容是什麼呢?一方面,是把許多小的貨幣資本聯合成一個生產資本,聯合成一個經濟單位,另一方面,是生產同資本所有權脫離,因此,這在兩重意義上克服了資本主義生產方式,但仍然站在資本主義的基地上。但是在這種情況下,伯恩施坦引證的統計材料中所說的參加一個企業的股東數目很大又說明什麼呢?這只不過說明,現在一個資本主義企業不像過去那樣相當於一個資本所有者,而是相當於大批的、人數不斷增加的資本所有者,因而“資本家”這個經濟概念不再是指“人”j今天的資本家k是一個集體,是由幾百甚至幾千人組成的,“資本家”這個範疇本身在資本主義經濟的框框裡變成社會範疇了,它社會化了。

既然如此,伯恩施坦把股份公司這個經濟現象恰恰反倒理解為資本的零散化l,而不是資本的集中,在馬克思認為是“資本所有權揚棄”m的地方,伯恩施坦看到的是資本所有權的擴張,這又怎麼解釋呢?可以用一個簡單的庸俗經濟學的謬誤來解釋:因為伯恩施坦理解的資本家不是一個生產的範疇,而是一個所有權的範疇,不是一個經濟單位,而是一個納稅單位,他理解的資本,不是一個生產整體,而是一個簡單的貨幣財產。因此,他在英國紡線托拉斯看到的不是一萬二千三百人合為一體,而是看到整整一萬二千三百個資本家,因此,在他看來,工程師舒爾採也是個資本家,因為他從食利者繆勒那裡得到了“一大筆股票”作為妻子的妝奩(見54頁)j,因此,在他看來,全世界密密麻麻一大片都是“資本家”。 k

但是,這里和通常的情況一樣,庸俗經濟學的謬論只是伯恩施坦把社會主義庸俗化的理論基礎。當伯恩施坦把資本家這個概念從生產關係搬進財產關係中去,“不談企業而談人們”(第53頁)的時候,他也就把社會主義從生產範圍搬進財產關係範圍,從資本和勞動的關係搬進貧與富的關係中去了。

這樣一來,我們就順利地從馬克思和恩格斯那裡被帶到《一個貧苦罪人的福音》的作者魏特林那裡去了,只是有一個區別:魏特林正是運用正確的無產階級本能在原始形式的這個貧富對立中認識到階級對立,並且想把它作為社會主義運動的槓桿,而伯恩施坦則相反,他是通過化貧為富即抹殺階級對立的辦法,也就是採用小資產階級的手法來看待社會主義的前途。

當然,伯恩施坦不僅限於收入統計材料。他還拿出了企業統計材料,而且有許多國家的,有德國、法國、英國、瑞士、奧地利和美國的。但是這是些什麼樣的統計材料呀?這不是每個國家不同時期的可以比較的材料,而是不同國家一個時期的材料。因此,他不是把一個國家在不同時期的企業組成情況作比較(除德國外,他重複了過去1895年和1882年的對比情況),而只是把不同國家的絕對數作比較(英國是1891年的,法國是1894年的,美國是1890年的,諸如此類)。他得出的結論是,“如果大企業今天事實上在工業中已經佔優勢,那麼把依靠它的企業一起計算進去,即使在普魯士這樣先進國家,最多只代表生產人口的一半”,在整個德國、英國、比利時等國,情況也是一樣(84頁)

他用這種辦法要證明的,顯然不是經濟發展的這種或那種趨勢,而只是不同企業形式或者說不同行業的絕對力量的對比。如果這可以證明社會主義沒有前途,那麼這種證明所根據的理論是,決定社會意圖結局的,是鬥爭雙方的數量上的、物理上的力量對比,也就是說,是單純的暴力因素。伯恩施坦處處反對布朗基主義,但他在這裡犯了最嚴重的布朗基主義錯誤。當然,這裡還有一個區別:布朗基主義者是社會主義的、革命的派別,他們認為社會主義在經濟上可以實現是不言而喻的,在這一基礎上他們指望暴力革命,甚至是少數人的暴力革命。但是,伯恩施坦卻相反,他根據人民在數量上沒有達到多數而得出了社會主義沒有前途的結論。社會民主黨獲得自己的最終目的的既不是依靠少數人的勝利的暴力,也不是依靠多數人數量上的優勢,而是依靠經濟必然性和對這種必然性的認識。這種必然性引導人民群眾消滅資本主義,而且這種必然性首先表現在資本主義無政府狀態上。

在談到最後這個有決定意義的問題即資本主義經濟的無政府狀態問題時,伯恩施坦本人只否認大的、普遍的危機,而不否認局部的、個別國家的危機。因此,他只是否認太多的無政府狀態,同時卻承認存在一點無政府狀態。在伯恩施坦看來,資本主義經濟——用馬克思的說法——就像那個懷了孩子的傻處女一樣,孩子“不過是那麼一點呀”。問題的嚴重性在於,象無政府狀態這樣的事,一點和很多是同樣糟糕的。如果伯恩施坦承認有一點無政府狀態,那麼商品經濟的機構本身就會注意使這種無政府狀態強化到極大的程度——直到崩潰。但是如果伯恩施坦在保持商品生的條件下也希望使這一點無政府狀態逐步溶化在秩序和協調之中,那麼他又犯了資產階級庸俗經濟學的一個根本性的錯誤,因為他把交換方式看成了不以生產方式為轉移的東西。 [j]

伯恩施坦在他的著作裡暴露了他對政治經濟學基本原理的驚人的混亂,要把這和盤托出,這裡不是適當的地方。但是,有一點與資本主義無政府狀態的基本問題有關,我們應當簡單說明一下。

伯恩施坦宣稱,馬克思的勞動價值規律純粹是一種抽象,在他看來,這顯然是政治經濟學中的一句很不體面的話。但是,如果勞動價值是一種抽象,一種“思想映像”(第44頁),那麼,每個服了兵役、納了銳的正直公民,都同馬克思一樣,有權把任何無稽之談製造成這樣一個“思想映像”,也就是製造成價值規律。 “本來可經容許馬克思把商品的屬性忽視到這種程度,使商品終於僅僅成為一定量的簡單人類勞動的化身,正像可以讓柏姆一傑文斯j學派自由地把除了效用以外的商品的一切屬性抽掉一樣“(第41-42頁碼)。

所以,在他看來,馬克思的社會勞動和門格爾的抽象效用都是一樣的,都純粹是抽象。可見,伯恩施坦完全忘記了,馬克思的抽像不是一種發明,而是一種發現,它不存在於馬克思的頭腦中,而存在於商品經濟中。它不是想像的東西,而是一種現實的社會存在,現實到可以拿來剪裁、錘打、秤量和模壓。馬克思發現的抽象為人類勞動,其發達形式不是別的,正地貨幣。這恰恰是馬克思的天才的經濟發現之一,而對於整個資產階級經濟學,從最早的重農學派到最後的古典學派,貨幣的神秘的本質一直是一本不可理解的天書。

相反,倒是柏姆一傑文斯學派的抽象效用事實上只是一種思想映像,或者不如說是一種沒有思想的映像,是一種不能張揚的愚蠢,這既不能由資本主義社會負責,也不能由任何別的人類社會負責,唯一應該負責是資產階級庸俗經濟學。伯恩施坦、柏姆、傑文斯和他們的一大批夥伴一樣,頭腦裡裝著這種“思想映像”,就是在貨幣的秘密面前再站二十年,也只能得出一種解決辦法,而這又是不用他們指點任何皮鞋匠也早已知道的:貨幣也是一種“有效用”的東西。

可見,伯恩施坦對於馬克思的價值規律一竅不通。但是,凡是對於馬克思的經濟學說體係有幾分了解的人,不用多說就會明白,如果沒有價值規律,整個體係就完全不可理解,或者俱體些說,如果不了解商品和商品交換的本質,整個資本主義經濟以及它的種種聯繫就必然是一個謎。

馬克思有一把有魔力的鑰匙,這把鑰匙使他揭開了一切資本主義現象最深奧的秘密,使他能夠輕易地解決了連斯密和李嘉圖這樣的資產階級古典經濟學大師都沒料到其存在的問題,但是,這把鑰匙是什麼呢?這不是別的,就是把整個資本主義經濟當作一個歷史現象來理解,並且不僅是往後看,象古典經濟學要最好的情況下也懂得的那樣,而且還往前看,不僅看到自然經濟j的過去,尤其看到社會主義的未來。馬克思的價值學說、貨幣分析、資本理論k以至他的整個經濟學說體系的秘密是,資本主義經濟的過渡性,它的崩潰,因而也就是——這不過是另一方面——社會主義的最終目的。正是因為而且僅僅是因為馬克思一開始就以社會主義者的立場,也就是用歷史的觀點去觀察資本主義經濟,所以他才能夠解釋資本主義經濟的象形文字,正是因為他把社會主義的立場作為對資產階級社會進行科學分析的出發點,他反過來才能科學地論證社會主義。

這一點也是衡量伯恩施坦在他的書的結尾關於“二元論”l的一段話的尺度。他說:“二元論”“貫穿馬克思的這一整部宏偉著作”,“這種二元論是,這一著作希望成為科學的研究,同時卻希望證明在一個早在它起草之前就已完成的論綱;這一著作的基礎是一個公式,在這一公式中,發展應當導致的結果從一開始就已經確定了。回到《共產黨宣言》([在這裡])也就是回到社會主義的最終目的! ——羅.盧.),在這裡指明了馬克思體系中實際存在的空想主義殘餘”。 (第117頁)

但是,馬克思的這種“二元論”不過是社會主義的未來和資本主義的目前的二元論,資本和勞動的二元論,資產階級和無產階級的二元論;它是資產階級社會中存在的二元論即資產階級的階級對立的宏偉的科學反映。

當伯恩施坦把馬克思的這個理論上的二元論看成“空想主義的一種殘餘”的時候,這只不過是一張坦白的供狀,說明他否認資產階級社會中歷史上存在的二元論,否認資本主義的階級對立,說明社會主義本身對他來說已經變成了“空想主義的殘餘”。伯恩施坦的一元論也就是永遠的資本主義制度的一元論,j是放棄了自己的最終目的,以便在一個不可改變的資產階級社會中看到人類發展的終點的那種社會主義者的一元論k

但是,如果伯恩施坦在資本主義經濟結構中看不到分裂即向社會主義的發展,那麼,為了至少是在形式上挽救社會主義綱領,他就不得不求救於在經濟發展之外的唯心主義結構,把社會主義本身從社會發展的一定歷史階段變成一個抽象的“原則”。

可見,資本主義用以裝扮自己的伯恩施坦的“合作原則”這個社會主義最終目的的最稀薄的“提煉物”,不是他的資產階級理論對於社會的社會主義未來的讓步,而是對於伯恩施坦的社會主義過去的讓步。

 

ã這是對愛德華.伯恩族坦《社會主義的前提和社會民主黨的任務》一書(1899年斯圖加特版)的評論。 ——盧森堡注

k參看本卷第87—89頁。 ——編者註

j見王德博爾得《政治科學手冊》。 ——盧森堡注

k二版改為“當時有單個資本”。

j二版改為“個人”。

k二版在“資本家”前面加了“工業”。

l二版改為“分散”。

m參看《馬克思恩格斯全集》第25卷第498頁。 ——編者註

j本文中以下羅莎.盧森堡在圓括孤內註明的頁碼均為伯恩施坦《社會主義的前提和社會民主黨任務》1899年斯圖加特版。 ——編者註

k注意!伯恩施坦顯然認為,小股票的大量推廣是社會財富已經開始把它的股票之福降於小民的證明。實際上,除了小資產者或者甚至工人以外,誰還去購買例如1 分尼或20馬克這樣的小股票呢!很遺憾,這個假設是根據一個錯誤的計算得來的:用的是股票的票面價值,而不是市場價值,而這是兩回事。可以舉個例子。在採礦業市場上,其中就有南非邊區的股票交易。其股票大部分的票面價值是1分尼(等於20馬克)。但它目前的價格已經是43分尼(見3月底的行情表)。也就是說,不是20馬克,而是860馬克。一般情況平均都地如此。因此,“小”股份雖然聽起來很民主,實際上大部分是中等資產階級“對社會財富的票據”,而決不是小資產階級的,更不是無產階級的。因為按票面價值獲得這種股票的人,在全部股東之中只佔極小部分。 ——盧森堡注

j二版冊去了這裡的一個腳註:[“的確,伯恩施坦對我們刊登在《萊比錫人民報》上的第一組文章的有些地方的答復是相當廣泛的,不過他還是露出了自己的狼狽相。例如,他為了輕易地答复我們關於他對於危機所持的懷疑態度的批評,竟認為我們把馬克思的整個危機理論變成了未來的音樂。但這是隨意曲解我們的話,因為我們說的僅僅是危機的通常的機械的周期的圖式,確切些說,是僅僅適合於充分發展了的世界市場的十年一次循環的危機的圖式。至於談到馬克思關於危機理論的內容,我們認為它是對機構(Mechanismus)的唯一科學的表述,也是對迄今發生的一切危機的內在經濟原因的唯一科學表述。

伯恩施坦對於我們其他的批評的答復更加令人吃驚。例如,卡特爾按其本質來說,不可能提供對抗資本主義無政府狀態的手段。因為它們(如製糖業所表明的)只是在世界市場上造成了尖銳的競爭。對於這一點伯恩施坦回答說,這固然是對的,但是英國製糖業的尖銳競爭卻有力地促進了果醬和罐頭的製造(第78頁)。這個回答使我們想起了奧倫多爾夫的語言自修課本第一部分中的會話練習:“袖子短但是鞋子小,父親個子高但是母親已經睡覺了”。

我們說,信用也不可能是防止資本主義無政府狀態的“適應手段”,因為它使這種無政府狀態反倒更為加劇。伯恩施坦對於我們的這個論證也用同樣的邏輯回答說:信用除了有破壞性外,還有積極的“創造”性,這一點連馬克思也是承認的。對於那些站在馬克思主義理論的立場上,在整個資本主義經濟中看到了社會的未來的社會主義變革的一切積極出發點的人來說,關於危機的這個論據是一點也不新鮮的。這裡爭論的問題是,信用的這種積極的、超越資本主義範圍的特徵性是否也能在資本主義經濟中積極實現,信用是否象伯恩施坦所設想的那樣能夠克服資本主義的無政府狀態,還是像我們所指出過的那樣,它本身反而蛻變為相反的東西,只會使無政府狀態更加擴大。伯恩施坦一再重複的“信用的創造能力”(這的確是整個辯論的出發點)在這種情況下只不過是“在理論方面向來世逃避”,即向討論範圍以外的來世逃避。 ]

j歐根.柏姆.巴維克(1851—1914)——奧地利資產階級經濟學家,是所謂的邊際效用學派的主要代表人物。 ——編者註

威廉.斯坦利.傑文斯(1835—1882)——英國資產階級經濟學家和哲學家,是所謂的邊際效用學派的創始人之一。 ——編者註

j二版改為“封建經濟”。

k二版在“資本理論”之後加了“、利潤率學說”。

l二版在“二元論”之後加了(“分裂”)。

j二版改為“一元論,即伯恩施坦的一致性也就是永存的資本主義制度的一致性“。

k二版改為“一致性“。




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二經濟和政治民主j



我們已經看到,伯恩施坦的社會主義歸結起來就是讓工人分沾社會財富,變貧者為富者的計劃。怎樣才能實現呢?在他發表在《新時代》上題為“社會主義問題”的一組文章中,他讓別人只看到一些幾乎不可理解的暗示,而在他的書裡對這些問題作出了充分的說明:他的社會主義要通過兩條道路來實現,即通過工會或者象伯恩施坦所說的通過經濟民主,再就是通過合作社。他想通過第一條道路抓工業利潤,通過第二條道路抓商業利潤。

就合作社而且首先是生產合作社而論,它們在本質上是資本主義經濟中的二重物,是在資本主義交換條件下的一種小規模的社會化生產。但是,在資本主義經濟中,交換統治著生產,而且由於競爭的緣故,肆無忌憚的剝削即生產過程完全受資本利益支配成了企業的生存條件。這一點在實際上的表現就是:必須盡量使勞動緊張,必須完全依據市場狀況來縮短或延長勞動時間,必須完全依照銷售市場的要求吸收勞動力或辭退勞動力,把他們拋到大街上去,總之,必須運用大家知道的一切辦法使資本主義企業能夠進行競爭。因此,在生產合作社中,工人必須服從充滿矛盾的必要條件:他們必須用完全必要的專制制度來管理自己,必須改革對自己行使資本主義企業家的作用。這種矛盾也就把生產合作社引向毀滅,因為它要末變成資本主義企業,要末在工人利益居於統治地位時就得瓦解。這也是伯恩施坦本人證實過的事實,但是他理解錯了,因為他跟在波特.維伯夫人k後面認為生產合作社l垮台的原因是缺乏“紀律”。這裡他膚淺地稱之為“紀律”的東西無非是自然發生的、絕對的資本製度,工人當然不能把這種制度用自己身上m

由此可見,生產合作社要在資本主義經濟中存在下去,只有當它採取迂迴曲折的道路消除隱藏在它內部的生產方式和交換方式之間的矛盾,巧妙地逃避自由競爭的規律的時候,才有可能。而它要能夠做到這一點,就只有保證自己一開始就有一個銷售市場,有一批固定的消費者。作為這種輔助手段為它服務的正是消費組合。伯恩施坦曾經探討過為什麼獨立的生產合作社會垮台,只有消費組合才能保證它存在下去的秘密就在於此,而不在於購銷合作社(或者象奧本海默曾想起過的名稱)的區別。

但是,在今天的社會裡,生產合作社的存在條件既然同消費組合的存在條件聯繫在一起,那就可以得出進一步的結論,就是生產合作即使在最順利的情況下也只能進行少量的地方銷售和少量的直接必需品,主要是糧食的生產。資本主義生產的一切最重要的部門,如紡織、煤炭、冶金、石油、機器、機車和造船工業一開始就排斥在消費合作社,從而也是生產合作社之外。因此,撇開生產合作社的二重性不談外,它也根本不可能具有普遍的社會改良的性質,因為如果生產合作社普遍實行起來,它的先決條件首先是取消世界市場,把現存的經濟拆成小規模的、地方性的生產和交換團體,也就是說,實質就是要從大規模的資本主義經濟退回到中世紀的商品經濟中去。

但是,生產合作社即使在它可能實現的範圍內,在現存社會的基礎上也必然要下降為消費組合的單純的附屬品,而消費合作社則因此成了站在前面充當擬議中的社會主義改革的主要代表。但是,這樣一來,通過生產合作社進行的全部社會主義改良,就從反對生產資本的鬥爭,即反對資本主義經濟的軀幹的鬥爭,變成反對商業資本的鬥爭,而且是反對小商業資本、中等商業資本的鬥爭,就是說,不過是反對資本主義軀幹上的小分枝的鬥爭。

至於工會,在伯恩施坦看來,它應該是反對生產資本剝削的一種手段,這一點我們上面已經指出過,不論在生產規模方面還是在技術方法方面,工會都不能保證工人能夠影響生產過程。

至於純粹經濟方面,即伯恩施坦所說的“工資率和利潤率的鬥爭”方面,我們也已經指出過,這個鬥爭不是在自由的藍色天空中進行,而是在工資規律的一定界限內進行;這一斗爭不能消滅工資規律,只是使這個規律得以實現。如果人們從另一方面觀察一下這件事,並且向自己提出一個問題,工會的職能究竟是什麼,那麼,這一點也就明白了。

在伯恩施坦看來,工會在工人階級的解放鬥爭中所起作用就是向工業利潤率實行真正的進攻,逐步把它溶解到工資率之中。但是工會根本沒有能力實行反對利潤的經濟進攻政策,因為工會[恰恰]不過是勞動力對利潤進攻實行的防禦,是工人階級對資本主義經濟的下降趨勢實行的防衛,理由有兩點:

第一,工會有通過自己的組織去影響勞動力這一商品的市場狀況的任務,但是,由於中間階層

無產階級化的過程使新商品不斷湧入勞動市場,這種組織就會不斷地受到破壞;第二,工會的目的是要提高生活水平,擴大工人階級享受社會財富的份額,但是,由於勞動生產率的提高,這個份額就像自然過程的必然性一樣,注定要不斷下降。要看到這最後一點,無須成為一個馬克思主義者,只要手中拿著洛貝爾圖斯j的《社會問題說明》就行了。

因此,資本主義社會的客觀進程使工會鬥爭在兩個主要經濟職能方面成了一種西西法斯的工作k。但是,如果工人要得到依照當時市場行情應得的工資,如果資本主義工資規律應當加以實現,如果要麻痺,或者更確切些說,要減輕經濟發展的下降趨勢的作用,那麼西西法斯的工作就是不可缺少的。但是,如果人們要把工會變成逐步減少利潤增加工資的手段,那麼首先要以兩個社會條件為前提:第一是中間階層停止無產階級化和工人階級停止增長;第二是勞動生產率停止提高,這兩種情況,也和消費合作社經濟的實現一樣,都地回到大資本以前的狀態。

可見,伯恩施坦提出的兩種社會主義改良手段,即合作社和工會,對於改造資本主義生產方式

來說,已經證明是完全無能為力的。其實伯恩施坦自己也模模糊糊意識到這一點,他把它們只是看作可以撕下一些資本主義利潤並用以使工人人致富的手段。但是這樣一來,他自己就放棄了同資本主義生產l的鬥爭,而把社會民主黨運動的鬥爭矛頭對準了資本主義分配。伯恩施坦一再說他的社會主義是爭取“公平的”、“較公平的”(見他的書第51頁)、甚至“更加公平的”(《前進報》,1899年3月26日)的分配。

資本主義制度的“不公平的”分配自然也是引起社會民主黨的運動的近因,至少在人民群眾中是如此。因此,社會民主黨為爭取全部經濟社會化而鬥爭時,它當然也要追求社會財富的“公平”分配。可是,根據馬克思的考察,一定的分配不過是一定的生產方式的自然的、合乎規律的結果,社會民主黨的鬥爭,不是指向資本主義生產框框裡的分配,而是要消滅商品生產本身。一句話,社會民主黨想通過消滅資本主義生產方式帶來社會主義分配,而伯恩施坦的方法則相反,他想同資本主義的分配作鬥爭,並且希望通過這條道路逐步帶來社會主義的生產方式。

但是,在這種情況下,伯恩施坦的社會主義改良能有什麼根據呢?根據資本主義生產的一定發展趨勢嗎?根本不是,因為,第一,他否認這種趨勢;第二,如上所述,所希望達到的生產形式在他看來是分配的結果而不是分配的原則。因此,他的社會主義的根據就不能是經濟的。在他顛倒了社會主義的目的和手段以及經濟關係之後,他不能給他的綱領提出任何唯物主義的論據,他不得不抓住唯心主義的論據不放。

我們聽到他說:“社會主義為什麼要從經濟的必然性中得出呢?”“為什麼要貶低人類的判斷力、正義感和意志呢?”(《前進報》1899年3月26日)。因此,伯恩施坦實現公平分配靠的是人類的不依賴於經濟必然性的君主的j意志,或者說得更確切些,既然意志本身只是一個工具,那就靠公平的理解力,總之,靠公平的觀念。

好了,我們幸運地找到公平原則了,這是一匹古老的跑馬,千百年來,所有想改良世界的人,在缺乏可靠的歷史運轉手段k時都騎過這匹馬,這是一匹瘦弱的洛西南特,歷史上所有的唐吉訶德們都騎著它幹過偉大的改革世界的事業,最後總是除了被打腫了的眼睛以外,什麼也沒有帶回來。

把貧富關係作為社會主義的社會基礎,把合作“原則”作為社會主義的內容,把“公平分配”作為社會主義的目的,把公平觀念作為唯一的歷史身份證——這一種社會主義,五十年前魏特林曾經主張過,並且有力得多,聰明得多,光輝得多!當然,這位天才的裁縫當時還不知道有科學社會主義。如果說,今天在半個世紀之後,被馬克思和恩格斯撕成碎片的魏特林的[全部]觀點竟幸運地被重新綴補起來,當作科學的最新發現獻給德無產階級,那麼這件事也要歸功於一個裁縫,但決不是天才的裁縫



* * *

如果說,工會和合作社是伯恩施坦理論j的經濟支柱,那麼,這個理論的最重要的政治前提就是民主的不斷向前發展。今天發生的反動在他k看來不過是“痙攣”,是暫時的,偶然的,在製定工人鬥爭的總方針時可以不必加以考慮。 [但是,問題並不在於伯恩施坦就反動的持久性在向他的朋友作出口頭的和書面的保證的基礎上想些什麼,而在於民主和實際的社會發展之間存在著什麼樣的內在的客觀聯繫。 ]

在伯恩施坦看來l,民主是現代社會發展的一個不可避免的階段。在他看來,正如在資產階級自由主義理論家看來一樣,民主制是一般歷史發展的巨大的基本規律,民主制的實現必然要促進政治生活中的一切起作用的力量。但是,這種絕對化的觀點是根本錯誤的,它不過是對最近二十五年到三十年這個資產階級發展的短短時期的結果作了小資產階級的,而且是膚淺的生搬硬套罷了。如果仔細觀察一下民主制在歷史上的發展,同時也看一看資本主義的政治歷史,那就會得出根本不同的結論。

關於前者,我們在不同的社會形態中,即在原始共產主義社會、在古代奴隸國家、在中世紀的城市公社中,都[一再]看到民主制。我們在完全不同的經濟關係中同樣也遇到專制制度和受限制的君主制j,另一方面,資本主義在其發展初期——作為商品生產的形式——在城市公社中創立了[純粹]民主的憲法。後來,在發展到它比較發達的形式即工場手工業的形式時,它卻把君主專制當作它的適當的政治形式。最後,作為發達的工業經濟,它在法國交替生產了這樣一些政體:民主共和國(1793年)、拿破崙第一君主專制、復辟時期的貴族君主制(1815— 1831)、路易.菲力浦的資產階級君主立憲,後來又是民主和國,又是拿破崙第三的君主制,最後第三次出現了共和國。 [從共和國方面說,它似乎正處是垂死狀態。 ]在德國,唯一實際的民主設施——普選權不是資產階級自由主義的成果,而是在政治上把各個小邦焊接起來的工具,只有這一點在德國資產階級的發展中有意義,他們過去卻滿足於半封建的立憲君主制。在俄國,資本主義光輝燦爛地k在東方式的專制制度下繁榮成長,資產階級沒有一點渴求民主的樣子。在奧地利,普選權大都成了這個四分五裂的王朝的救生圈。 [第十四條l的統治證明,它與真正的民主的聯繫多麼少。 ]最後,在比利時,工人運動的民主成果——普選權毫無疑問同軍國主義的軟弱有關係,因而同比利時的特殊地理政治狀況有關係。而且首先是這“一點兒民主”不是由m資產階級爭來的,而是反對資產階級得來的。

由此可見,民主的不斷高漲(伯恩施坦和資產階級自由主義n都以為這是人類歷史的、至少是現代歷史的根本規律),仔細看來不過是空中樓閣。在資本主義發展和民主之間不可能建立內在的j絕對的聯繫。無論什麼時候,政治形式都是國內外政治因素的總和的結果,在政治範圍內,可以有一切層次,從專制君主製到最民主的k共和國。

因此,如果我們即使在現代社會範圍內也不顧民主發展的一般歷史規律,而只注意資產階級歷史的現階段,那麼,我們會看到,就在這裡,在政治形勢中包含的因素,也不會導致實現伯恩施坦的計劃,恰恰相反,倒是會導致資產階級社會放棄到現在為止所取得的成果。

一方面,非常重要的是,民主制度對於資主階級的發展起過重大作用。在它對於小國的相互結合和現代大國的建立所必需的限度內(德國、意大利),[它是必不可少的;]經濟發展這時才會帶來內在的有機的接合[,而且政治民主的繃帶就可以取掉,不會給資產階級社會的機體造成危險]。

在把整個政治的和行政的國家機器從半封建或封建機構改造成資本主義機械方面,情況也是一樣,這個在歷史上同民主不可分離的改造今天已經達到這樣的高度,國家製度中的純粹民主成分即普遍投票權l和共和製國家形式已經可以沒有危險地m取消,而用不著使行政、財政和國防等等回到三月n以前的形式。

如果這樣的自由主義對於資本主義社會o已經成為完全多餘的東西,那麼另一方面,在一些重要方面它已經成為直接障礙。這裡有兩個恰恰支配著當前國家的全部政治生活的因素需要加以考察:世界政策和工人運動——兩者僅僅是資本主義發展的現階段的兩個不同方面。

世界經濟的形成,世界市場上的競爭的尖銳化和普遍化,使作為世界政策工具的陸海軍國主義,在[所有]大國的對外對內生活方面都成了決定性因素。但是,既然世界政策和軍國主義[由於同資本主義的經濟需要和經濟意圖關係,毫無疑問]是現階段的一個向上發展的趨勢,那麼,資產階級民主就理應沿著下降路線運動。 [最鮮明的例子是:西班牙戰爭j以來的北美同盟。在法國,主要是由於國際政治局勢使戰爭暫時不可能發生,共和國才得以生存下去。如果發生了戰爭而證明法國沒有為世界政策而武裝起來,那麼,對法國第一次在戰場上的失敗的答复就會是,宣佈在巴黎建立君主制。 ]在德國,大規模擴充軍備的{最新的}時代(1893年)k和從占領膠州l開始奠基的世界政策立即從資產階級民主制方面獲得了兩份獻禮:自由主義的垮台和中央黨的轉變。 m

如果對外政策把資產階級推到反動派的懷抱,那麼,對內政策對力求上進的工人階級的影響也不少。伯恩施坦自己也承認這一點,因為他認為社會民主黨的“貪食奇談”,即工人階級的社會主義意圖要對自由資產階級背叛自己旗幟的行為負責。因此,他勸告無產階級放棄自己的社會主義最終目的。以便把嚇得要死的自由主義再從反動的耗子洞裡引誘出來。但是,伯恩施坦既然認為今天消滅社會主義工人運動是資產階級民主制的生存條件和社會前提,他自己也就最清楚地證明:正如社會主義工人運動是今天社會的內在發展趨勢的一個直接產物,民主制在同樣程度上也與這上趨勢發生關矛盾。

但是,他這樣一來也證明了別的事情。當他把工人階級放棄社會主義最終目的作為複活資產階級民主制的前提和條件的時候,他自己反過來也就證明:資產階級民主制要成為社會主義運動和社會主義勝利的必要前提和條件是多麼不可能。在這裡,伯恩施坦的推理陷入了惡性循環,最後的結論“貪食“了它的第一個前提。

要擺脫這個惡性循環很簡單:效益產階級自由主義在蒸蒸日上的工人運動和它的最終目的的面前嚇破了膽,根據這一事實只能得出這樣的結論:社會主義工人運動今天恰恰是而且能夠是民主制的唯一支柱,不是社會主義運動的命運取決於資產階級民主制,倒是民主制發展的命運取決於社會主義運動;民主的生命力不是隨著工人階級放棄解放鬥爭的程度而增強,而是隨著社會主義運動為反抗世界政策和資產階級背叛自己旗幟的行為的反動後果所進行的鬥爭的充分強大程度而增強;誰希望民主制強大,誰就得希望社會主義運動強大,而不是希望它削弱,放棄了社會主義的鬥爭,也就放棄了工人運動,放棄了民主制。

[伯恩施坦在1899年3月26日《前進報》上對考茨基所作的“回答”的結尾宣稱,他完全同意社會民主黨綱領的實際部分,他只是反對這一綱領的理論部分。儘管如此,他顯然相信,他還有權在黨的行列中前進,因為“理論(部分)是否有一個命題同我關於發展進程的觀點不再相符合”又有什麼“重要”呢?這個說法在最好的情況也表明,伯恩施坦完全不懂得社會民主黨的實際活動同它的一般原則的聯繫,用同樣的話不再說明同樣的事情對伯恩施坦來說和對黨來說究竟有多少。事實上,我們已經看到,從伯恩施坦自己的理論中社會民主黨可以得到一個起碼的認識,這就是,取消了原則基礎,全部實際鬥爭也就失去了價值,失去了目的,放棄了最終目的,運動本身也必然要滅亡。 ]

 

j二版改為“工會、合作社和政治民主”。

k比阿特里薩.波特.維伯(1858—1943)——悉尼。維伯的夫人。參看本卷第181頁註1。 ——編者註

l二版在“生產合作社”前面加了“英國”。

m二版這裡加了一個腳註。 “工人自己的合作工廠,是在舊形式內對舊形式打開的第一缺口,雖然它在自己的實際組織中,當然到處都再生產出並且必然會再生產出現存制度的一切缺點”。

j約翰.卡爾.洛貝爾圖斯-亞格措夫(1805—1875)——德國庸俗經濟學家和政治活動家,普魯士容克的思想家,“國家社會主義”的鼓吹者。 ——編者註

k西西法斯在希臘神話中是哥林多的王,被罰在冥府運巨石到同頂,石滾下山坡,又得往上運,如此往返不息而毫無結果。 ——編者註

l二版改為“生產方式”。

j二版改為“自由的”。

k二版改為“促進手段”。

j二版改為“修正主義理論”。

k二版改為“修正主義”。

l二版在這句話前面加了“例如”。

j二版改為“立憲的君主制”。

k二版改為“長期”。

l指奧地利憲法第14條。這一條款規定,沒有奧皇及內閣的批准,不得發布命令。其目的是便於當局利用一切手段來鎮壓人民起義。 ——編者註

m二版未加著重號。

n二版改為“我們的修正主主同資產階級自由主義一樣”。

j二版改為“普遍的”。

k二版改為“民主”。

l二版改為“普選權”。

m二版刪去了“沒有危險地”。

n指德國1848年三月革命。 ——編者註

o二版改為“資本主義社會本身”。

j指帝國主義第一次重新瓜分殖民地的美西戰爭。 ——編者註

k二版改為“是從1893年開始的”。

l指1897年德國帝國主義侵占中國膠州灣事件。 ——編者註

m二版將後半句改為:“中央黨從反對黨變成執政黨”,並補充了一段話:“最近的1907年的國會選舉,是在殖民政策的旗幟下格鬥過來的。這次選舉同時也是德國自由主義的歷史墳墓。圍繞著新的軍事提案發生爭論,使德意志自由黨分裂為自由聯盟和自由人民黨。1893年7月15日,除社會民主黨外,自由人民黨和中央黨也投票反對軍事提案。但是,中央黨卻竭力維護政府的反顛覆法案以及其他反對社會民主黨和工人階級的措施。”




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三奪取政權



我們已經看到,民主制的命運是同工人運動的命運聯繫在一起的。但是,難道民主制的發展甚至在最好的情況下也會使得在掌握國家權力和奪取政治權力意義上的無產階級革命成為多餘的或者成為不可能發生的事嗎?

伯恩施坦用精確衡量合法改良和革命的好的方面和壞的方面的辦法來解決這個問題。他悠然自得地秤著,使人想起了消費合作商店秤桂皮和胡椒的情景。在他看來,合法的發展過程是理智的作用,革命的發展過程是感情的作用;改良工作是緩慢的工作,而革命是歷史進步的急速方法;立法是有計劃的工作,而革命是自發的暴力(第183頁)

由來已久了,小資產階級改良主義者在世界的一切事物中總是看到“好的”和“壞的”方面,對一切花壇都津津有味。但是,事物的實際進程很少注意小資產階級的各種算計,從世界上一切可能的事物中精心搜起的一堆“好的方面”稍一碰撞就會化為灰燼,這同樣也是由來已久的了。實際上,我們在歷史上看到,合法的改良和革命所起的作用,和這個或那個方法的優點和缺點相比,有著更為深刻的根據。

恰恰是在歷史的過程中,合法的改良總是為上升階級的逐步鞏固服務的j,直到它感到已經成熟到足以奪取政權,推翻整個現存的權利體系,建立新的體係為止。伯恩施坦反對奪取政權,把奪取政權咒罵為布朗基主義的暴力論,他的不幸就在於,把千百年來已經成為人類歷史的軸承和動力的東西看作布朗基主義的錯誤。自從階級社會存在,階級鬥爭成為社會歷史的基本內容以來,奪取政權j一直是一切上升階級的目的,又是每一歷史時期的起點和終點。這種情況,我們在古羅馬農民同貨幣資本家k的長期鬥爭中,在中世紀城市貴族同主教的鬥爭和手工業者同貴族的鬥爭中,在近代資產階級同封建主義的鬥爭中,都可以看到。

因此,立法l和革命並不像在歷史的食堂裡的熱炒和冷盤一樣是可以任人挑選的歷史進步的不同方式,它們是階級社會發展中的不同要素,既是相互制約和相互補充,同時又像南極和北極、資產階級和無產階級一樣相互排斥。

而且每個時代的法制都不過是革命的產物。革命是階級歷史在政治方面的創造行為,而立法則是社會在政治方面維持生存的手段。合法的改良工作本身並不包含著自己獨特的、與革命無關的動力,在每個歷史時期中,它只是在最後一次革命變革所給予它的推動在它身上還發生作用的方向上和時期內進行活動,具體地說,也就是只是在最後一次革命變革在世界上所建立的社會形態的框框裡進行活動。這正是問題的核心。

以為合法改良工作只是放寬了範圍的革命,革命只是壓窄了範圍的改良,這種說法是根本錯誤的,是完全違背歷史的。社會革命和合法改良是不同的要素,不是時間長短不同,而是本質不同。歷史上運用政治力量進行的革命變革,其全部秘密正在於由單純的量變為新質,具體地說,在於從一個歷史時期、一個社會制度過渡到另一個歷史時期、另一個社會制度。

因此,誰要是用合法改良道路來代替奪取政權和社會革命,把合法改良道路同奪取政權和社會革命對立起來,那他事實上選擇的不是達到同一目的的比較溫和的、穩妥的和緩慢的道路,而選擇了另一目的,這就是,不是建立一個新的社會制度,而只是要在舊制度中作些量的j變動。所以,從伯恩施坦k的政治觀點中和他的經濟理論中都可以得出同樣的結論:從根本上說,都不是以實現社會主義制度為目的,只以改良資本主義為目的,不是要消滅僱傭勞動制度,而是爭剝削的多些或少些,一句話,是為了消滅資本主義的贅疣,而不是為了消滅資本主義本身。

但是,上面所說的關於合法改良和革命的作用的話,也許只是對到現在為止的階級鬥爭是正確的吧?也許,從今以後,由於資本主義法律制度的形成,合法改良也可以有責任把社會從一個歷史階段引向另一個歷史階段,而無產階級奪取政權l“變成了毫無內容的空話”(第183頁)了吧?

情況恰恰相反。資產階級社會區別於以前的階級社會即古代和中世紀社會的特徵是什麼呢?這正在於,現在的統治不是以“既得權利”為依據,而是以實際經濟關係為依據,僱傭勞動制度不是一個權利關係,而是一個純粹的經濟關係。在我們整個的法律制度中,找不到現在的階級統治的法律規定。如果還能找到一些痕蹟的話,如奴僕制度,那麼,這恰恰是封建關係的殘餘。

既然僱傭奴隸制度在法律上根本沒有表現出來,又怎麼“通過合法道路”逐步予以廢除呢?想靠合法改良工作來給資本主義準備一個結局的伯恩施坦,也陷入了烏斯賓基所說的那個俄國巡警的處境。這位巡警在敘述他的冒險故事時說:“我一把抓住那個傢伙的領子,結果怎樣呢?那可惡的傢伙竟沒有領子!“麻煩就在這裡。

“到目前為止的一切社會都是建立在壓迫階級和被壓迫階級的對立之上的”(《共產黨宣言》第17頁j。但是,在現代社會的過去階段上,這個對立曾經在一定的法律關係上表現出來,因此,到一定程度內,新興的關係還可以在舊關係的框框內找到地盤。“農奴曾經在農奴制度下掙扎到公社社員的地位”(《共產黨宣言》第 17頁。 k)怎麼辦呢?通過在城市郊區逐步廢除那一切零零碎碎的、總起來構成農奴制的權利,如徭役、選畜權、衣著權、借地繼承稅、人頭稅、強迫婚姻、遺產公享權等等。

同樣,“小資產者曾經在封建專制制度的束縛下掙扎到資產者的地位”(《共產黨宣言》)第17頁。 l)怎麼辦呢?通過局部地在形式上廢除行會的束縛或者事實上削弱行會的束縛,通過逐步地在最必要的範圍內改造行政、財政和國防制度。

因此,如果抽像地而不是歷史地研究問題,那麼,在以前的階級關係的情況下,至少可以設想通過純粹合法改良的辦法從封建社會過渡到資本主義社會。但是,事實上我們看到的是什麼呢?即使到那時,合法改也不是使由資產階級奪取政權成為多餘,倒是為奪取政權作了準備和引導。無論對於廢除農奴制度來說,或者對於廢除封建制度來說,真正的社會革命當時都是不可缺少的。

但是,現在的情況不同了。強迫無產者接受資本奴役的,不是法律,而是貧困,是缺乏生產資料。然而世界上沒有任何法律在資本主義社會範圍內能夠宣布生產資料屬於他們,這是因為他們被剝奪了生產資料不是由於法律,而是由於經濟的發展。

其次,僱傭關係內部的剝削,同樣也不是以法律為依據的,因為工資的高低不是由法律的途徑,而是由經濟因素決定的。剝削這個事實本身就不是依據一種法律規定,而是依據純粹的經濟事實,這就是,勞動力作為商品出場,它除了具有其他特性外,還有一個令人滿意的特性,就是它能生產價值,並且生產的價值比它自己消耗的 j價值還多。總之,資本主義階級統治的一切基本關係是不能在資產階級基礎上用合法改良的手段來改造的,因為這些關係既不是由資本主義的法律帶來的,也不從這些法律中獲得形式的。伯恩施坦在設計社會主義“改良”計劃的時候是不知道這一點的,但是他不知道的也就是自己說過的東西,他在他那本書裡第十頁上寫道: “經濟動機現在在過去用種種統治關係和意識形態掩蓋著的地方無拘無束地登場了”。

但是還要補充一點。資本主義制度還有另一特點,這就是,在這個制度中,未來社會的一切因素在發展過程中首先採取的形式不是使這些因素向社會主義靠近,而是和社會主義疏遠了。在生產中,社會生越來越明顯地表現出來。但是採取什麼形式呢?是股份公司、[國有化、]卡特爾k,在這裡,資本主義的對立,勞動力的被剝削和被奴役發展到了頂點。

在國防方面,這一發展使普遍義務兵役制得到了推廣,使服役期限縮短,因而在物質上向人民軍隊接近了。但是,這些都採取了現代軍國主義的形式,在這裡,人民受軍事家的統治、國家的階級性質最顯明地表現出來了。

在政治關係方面,民主的發展(只要它處在最有利的條件下)導致了各階層人民參與政治生活,也就是說,在某種程度上導致了建立“人民國家”。但採取的是資產階級議會制度的形式,在這裡,階級對立,階級統治沒有被廢除,倒是展開和暴露出來了。既然整個資本主義的發展是在矛盾中運動的,那麼,為了把社會主義社會的內核從同它矛盾著的資本主義外殼中剝出來,也正是為了這個緣故,就需要由無產階級奪取政權,完全消滅資本主義制度。

伯恩施坦當然知道另一種勸告j:如果說,民主的發展是使資本主義矛盾尖銳化而不是使它緩和,他回答我們說:那時“社會民主黨如果不想給自己的工作增加因難,那它就必然要盡力阻撓社會改良和民主設施的擴大”(第71頁)。不錯,如果社會民主黨學小資產階級的樣子,對於從歷史上去選擇一切好的方面,拋棄壞的方面的吃力工作還是津津有味的話。不過那時社會民主黨勢必也要對整個資本主義“盡力阻撓”,因為資本主義毫無疑問是罪魁禍首,是它在社會民主黨走向社會主義的道路上設下了種種障礙。實際上,資本主義在設置障礙的同時,也提供了實現社會主義綱領的唯一可能性。這種情況對民主制也完全適用。

如果說,民主制[,正如我們在第45—46頁k上指出過的,]對於資產階級已經一部分變成了多餘的東西,一部分變成了障礙,那麼,它對於工人階級卻是必要的、不可缺少的。首先,民主制是必的,因為它創立了各種政治形式(自治、選舉權等等),在無產階級改造資本主義社會時可以給它充當跳板和支撐點。其次,民主制是不可缺少的,因為無產階級只有在民主制中,在為民主製而鬥爭中,在運用民主權利中,才能意識到自己的階級利益和自己的歷史使命。

總之,民主制所以不可缺少,不是因為它使無產階級奪取政權成為多餘,倒是因為它使無產階級奪取政權成為唯一可能的,也是必要的。當恩格斯在《法蘭西階級鬥爭》導言中審查當前工人運動的策略並把合法鬥爭同街壘對立起來時,從導言的每一行都看得很清楚,他論述的不是最後奪取政權的問題,而是當前日常鬥爭的問題,不是無產階級在掌握國家政權的時候對待j資本主義國家的態度問題,而是在資本主義國家框框內它的態度問題。一句話,恩格斯對被統治的無產階級而不是對勝利的無產階級作了指示。

馬克思關於英國土地問題的著名言論則相反(伯恩施坦也同樣引用過),他說:“假如對地主實行贖買,也許是最便宜的”k這裡講的不是無產階級在勝利之前而是勝利之後的態度。因為顯然只有在工人階級執掌政權時才談得上對統治階級的“贖買”。而馬克思在這裡作為可能性來考慮的,是無產階級專政的和平的運用,而不是用資本主義的社會改良來代替這個專政。

無產階級掌握政權的必要性,不論馬克思還是恩格斯,都從來沒有懷疑過。而伯恩施坦把資產階級議會制度的雞窩當作負有完成偉大世界歷史意義的革命變革——使社會從資本主義形式過渡到社會主義形式——使命的機關,這是他的權利。

不過,伯恩施坦純粹是用恐懼和向人們提出警告的心情來闡述自己的理論的,無產階級不能過早地取得政權呵!在這種情況下,在伯恩施坦看來,無產階級應當讓資本主義的現狀維持下去,而讓自己遭受可怕的失敗。我們從伯恩施坦的這種恐懼中首先很明顯是看到的是,一旦由於種種情況無產階級執掌了政權,伯恩施坦的理論只能給予無產階級一個“實際”指示——躺著睡覺去吧!但是這樣一來這個理論也就立即給自己作出了判決,原來這是一種預先註定無產階級在斗爭的緊要關頭無可作為因而是消極地背叛自己事業的觀點。

我們的整個綱領如果不能在斗爭的一切場合和一切時機為我們服務,並且是通過執行它而不是不執行它為我們服務,那它實際上就變成了一張廢紙。 [的確! ]如果我們的綱領是資本主義到社會主義的社會歷史發展的表述,那麼它顯然也必須表述這一發展的一切過渡階段的基本輪廓,因而它也要能夠指出j在每個時機為加速實現社會主義而採取的適當行動。由此可見,對於無產階級來說,根本不會有它不得不放棄自己的綱領或者被這個綱領所拋棄的時刻。

實際上,這種情況也表現在這樣的事實上:由於事態的發展執掌了政權的無產階級,沒有一刻不去或者不承擔義務去採取某種k措施實現自己的綱領,去採取某種l措施向社會主義過渡。如果認為社會主義綱領在無產階級取得政治統治的某種時刻完全不起作用,不能對它的實現作出什麼指示,那麼在這種主張的後面隱藏著m另一個主張,這就是,社會主義綱領根本是任何時候都實現不了的。

要是採取了過早的過渡措施又怎麼樣呢?這個問題包含著對社會變革的現實過程的一大堆錯誤認識。

由無產階級即由廣大群眾掌握國家政權,首先不是人為地產生的。它本身是以經濟政治情況的一定成熟程度為前提的,我們在談論這個問題時是撇開了象巴黎公社那樣的情況的,那時無產階級取得統治不是為了確定目的自覺鬥爭的結果,而是作為被大家遺棄了的無主的貨物例外地落到了無產階級手中。這也就是布朗基主義的國家政變同由廣大的[而且是]有階級覺悟的人民群眾奪取政權之間的根本區別。前者是由“堅決的少數”發動政變,任何時候都可以發射,像從手槍裡發射子彈一樣,因此總是不合時宜;而後者本身只能是已經開始的資產階級社會崩潰產物,因此它本身就帶著合乎時宜出現的經濟和政治的合法證書。

因此,如果說,從社會前提的角度看,由工人階級奪取政權決不會“過早”發生,那麼,另一方面,從政治效果即從政權的保持的角度看,它必然是“過早”發生的。使伯恩施坦睡不著覺的過早的革命,象達摩克利斯的劍j一樣懸掛在我們頭頂上,對於這把劍,任何請求和祈禱,憂慮和警告k都無濟於事。這裡有兩點很簡單的理由:

第一,要想一子通過無產階級的一次勝利的打擊來完成把社會從資本主義制度變成社會

主義制度這樣的巨大變革,這是完全不可想像的。如果設想這是可能實現的,那就意味著再次暴露了真正的布朗基的觀點。社會主義變革以長期的、頑強的鬥爭為前提,在這個鬥爭中,根據各種可能的情況看來,無產階級會不止一次地被擊退,因此,從整個鬥爭的最後結局的觀點來看,第一次必然是“過早地“掌握政權。

但是,第二,這種“過早地”掌握政權也是不可避免的,因為無產階級的這種“過早的”進攻,正是為最後勝利創造政治條件的一個因素,而且是十分重要的因素,也正是這種進攻幫助最後勝利的時機的到來和決定了這個時機l。從這個觀點出發,認為勞動人民過早地奪取政權的概念本身m,在政治上是荒謬的,它來源於對社會發展的機械的理解,假定階級鬥爭勝利的一定時機產生於階級鬥爭之外,不依賴於階級鬥爭。

但是,既然無產階級這樣一來除了“過早地”奪取政權外,沒有別的辦法,換句話說,既然它必須一次奪取它n,以便最後持久地掌握它,那麼,反對“過早”奪取政權的反對派不是別的,正是根本反對無產階級為奪取國家政權而鬥爭的反對派。

由此可見,正如條條大路通羅馬,我們從[伯恩施坦理論的]這一方面也會邏輯地得出這樣的結論:伯恩施坦o的放棄最終目的p的方針,也就是放棄整個q運動的方針。 [他勸告社會民主黨在奪取政權時“躺著睡覺去吧”,也就等於勸告它現在去睡覺,永遠去睡覺,也就是說,放棄階級鬥爭。 ]

 

j二版改為“在資產階級社會的歷史上,合法的改良是為。。。。。。服務的”。

j二版改為“恰恰奪取政權”。

k二版改為“和貴族”。

l二版改為“合法的改良”。

j二版改為“非本質的”。

k二版改為“修正主義”。

l二版在此處插入“正如伯恩施坦在他的書裡所說的那樣”。

j 《馬克思恩格斯選集》第1卷第263頁。 ——編者註

k同上。 ——編者註

l同上。 ——編者註

j二版改為“比它自己以工人生活資料的形式消耗的”。

k二版改為“是大企求業、股份公司、卡特爾”。

j二版改為“伯恩施坦從這裡得出的當然是另一個結論。”

k參看本卷第123—128頁。 ——編者註

j二版未加著重號。

k “我們決不認為,贖買在任何情況下都是不容許的;馬克思曾向我講過(並且講過好多次!)他的意見;假如我們能用贖買擺脫這整個匪幫,那對於我們是最便宜不過的事情了”。 (《馬克思恩格斯全集》第22卷第585頁)——編者註

j二版改為“向無產階級指出”。

k二版改為“一定”。

l同上。

m二版改為“不自覺地隱藏著”。

j達摩克利斯是古代意大利錫拉丘斯暴君迪奧尼修斯的一個大臣,慣用花言巧語謅媚人。一次應邀赴宴,暴君將一利劍用頭髮絲懸掛於其頭頂,供赴宴者取笑,後來人們用“達摩克利斯的劍”一詞表示有千鈞一發的危險之意。 ——編者註

k二版改為“恐懼”。

l二版將後半句改為“因為無產階級只有在伴隨著奪取政權而來的那種政治危機的過程中,在長期頑強鬥爭的烈火中,才能達到足以完成最後的偉大變革所必需的政治成熟程度。因此,無產階級的那種對國家政權的”過早的“進攻,本身就是幫助最後勝利的時機的到來和決定這個時機的重要歷史因素。”

m二版改為“認為勞動人民‘過早地’奪取政權的想法”。

n二版改為“一次或數次奪取它”。

o二版改為“修正主義”。

p二版改為“社會主義最終目的”。

q二版改為“社會主義”。




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四崩潰



伯恩施坦修正社會民主黨的綱領是從拋棄資本主義崩潰論開始的。但是,既然資產階級社會的崩潰是科學社會主義的基石,那麼,拋棄了這個基石邏輯上必然使伯恩施坦的全部社會主義觀點趨於崩潰。他在辯論過程中,為了保持他的第一個主張,就把社會主義陣地一個一個地放棄了。

沒有資本主義的崩潰,剝奪資本家階級就不可能實現,於是伯恩施坦就放棄剝奪,把逐步實行“合作原則”作為工人運動的目的。

但是,合作原則在資本主義生產內部是行不通的,於是伯恩施坦就放棄生產社會化,著手改良商業,發展消費組合。

但是,通過消費組合來改造社會,哪怕同工會一起幹,同資本主義社會事實上的物質發展不相容,於是伯恩施坦就放棄唯物主義歷史觀。

但是,他關於經濟發展進程的觀點同馬克思的剩餘價值規律不相容,於是伯恩施坦就放棄剩餘價值規律和價值規律,從而放棄卡爾.馬克思的全部經濟理論。

但是,沒有確定的目的和沒有現代社會中的經濟基礎,無產階級的階級鬥爭不能進行,於是伯恩施坦就放棄階級鬥爭,聲明同資產階級自由主義和好。

但是,在一個階級社會裡,階級鬥爭是一個完全自然的、不可避免的現象,於是伯恩施坦就在進一步的結論中甚至否認我們社會中階級鬥爭的存在。在他看來,工人階級是一群不僅在政治上和思想上,而且在經濟上都是四分五裂的個人。在他看來,資產階級也不是靠內在的經濟利益結合起來的,而是靠外部的壓力(來自上面或下面的)在政治上結合起來。

但是,如果沒有階級鬥爭的經濟基礎,並且根本沒有階級,那麼,不僅不可能有無產階級同資產階級未來的鬥爭,而且也不可能有它們到現在為止的鬥爭,那麼,社會民主黨本身及其成果就是不可理解的了。或者,如果說是可以理解的,那麼這也只是來自政府方面的政治壓力的結果,而不是歷史發展的合乎規律的結果,而是霍享索倫方針的偶然產物,不是資本主義社會的合法的兒子,而是反動派的私生子。這樣一來,由於確定不移的邏輯,伯恩施坦就從唯物主義歷史觀走到了《法蘭克福報》和《福斯報》的立場上去了。

在否定了對資本主義社會的全部社會主義批判以後,剩下的就只是尋求滿足於現狀了,至少在總的方面是如此。而且對於這一點伯恩施坦並不退縮;他發覺現在德國的反動派並不很強大,“西歐各國政治上的反動看到的不多”,幾乎所有的西方國家的資產階級對待社會主義運動的態度至多是防禦而不是鎮壓“(《前進報》,3月26日)。工人不是越來越貧窮,而是相反,他們越來越富裕了。資產階級在政治上是進步的,甚至在道德上也是健康的,看不到反動和壓迫,——在這個所有世界最好的世界中,萬事都走向最好的境界。

就這樣,伯恩施坦完全合乎邏輯地從頭走到尾。開始,他為了運動放棄了最終目的,但是沒有社會主義最終目的的社會民主運動實際上是不會有的,那麼他的結局就必然是連運動本身也一起拋棄掉。

這樣一來,伯恩施坦的全部社會主義觀點都崩潰了。雄偉、對稱和奇美的馬克思體系建築物,在他那裡現在變成了一個大垃圾堆,一切思想體系的碎片,一切大小思想家的片斷思想,在這裡找到了一個公墓地。馬克思和浦魯東、列奧.馮.布赫和弗蘭茨.奧本海默、弗里希.阿爾伯特.朗格和康德、普羅柯波維奇先生和利特爾.馮.紐包威爾博士、赫克納和舒爾採格弗茨、拉薩爾和尤利烏斯.沃爾弗——所有這些人在伯恩施坦體系中都作出了也片斷的貢獻,伯恩施坦從他們那裡都學到了一些東西。毫不奇怪!他拋棄了階級觀點,就失去了政治羅盤,他拋棄了科學社會主義,也就失去了把個別事實要一個徹底的世界中結成有機整體的精神上的結晶軸。

這個把一切可能的思想體系的殘片毫無區別地混雜在一起的理論,乍一看來似乎是毫無偏見的。伯恩施坦不願意聽到什麼“黨的科學”,或者正確些說,階級的科學。也不願意聽到什麼階級的自由主義,階級的道德。他想代表的是一般人類的、抽象的科學,抽象的自由主義,抽象的道德。但是,因為現實社會是由階級組成的,這些階級有截然相反的利益、意圖和觀點,所在社會問題上的一般人類科學、抽象的自由主義、抽象的道德暫時是一種幻想,一種自我欺騙。伯恩施坦所謂的一般人類的科學、民主和道德,只不過是統治者的東西,也就是說,是資產階級科學,資產階級民主和資產階級道德。

的確是這樣!當他拒絕了馬克思的經濟學說體系,效忠於布倫坦諾,柏姆一傑文斯、薩伊、尤利烏斯.沃爾弗的學說的時候,他除了用資產階級的辯護詞來代替工人階級解放的科學基礎以外,還能做什麼呢?當他談論自由主義的一般人類性,把社會主義變成它的變種的時候,他除了抽去社會主義的階級性,抽去它的歷史內容,因而也就是抽去了一切內容之外,除了反過來把自由主義的歷史代表即資產階級當作全為類利益的代表以外,還能做什麼呢?

當他反對在社會民主黨內“把物質因素抬高為無所不能j的發展力量”,攻擊“輕視理想”的時候,當他起來維護理想主義和道德但同時又竭力反對複活無產階級精神的唯一泉源即革命的階級鬥爭的時候,實質上,這除了向工人階級宣傳資產階級道德的真髓,即宣傳與現在製度妥協,把希望帶到道德的理想世界的來世以外,還能做什麼呢?

最後,當他用利箭對準辯證法的時候,除了同正在興起的有階級覺悟的無產階級的特殊思想方法鬥爭以外,還能做什麼呢?他反對的是這樣一把劍,這把劍曾幫助無產階級穿破黑暗,看清自己歷史的未來。他反對的是這樣一個精神武器,用這個武器無產階級雖然物質上還在羈絆之下就戰勝了資產階級,因為它向資產階級證明,資產階級的存在是暫時的,而無產階級的勝利是不可避免的,因而在精神世界已經完成了革命!當伯恩施坦向辯證法告別j使用“一方面,另一方面”、“固然,但是”,“雖然,不過”、“或多或少”這些思想上的蹺蹺板的時候,他就完全合乎邏輯地陷入沒落資產階級由歷史所決定的思想方法中了,這種思想方法正是資產階級的社會存在和政治行為的一幅忠實的精神上的畫像。 [卡普里維k、霍享洛埃l、伯勒普什m、波扎多夫基、二月法令n苦役監禁法案o]目前資產階級在政治上的“一方面,另一方面”, “如果”,“但是”表現得恰恰同伯恩施坦的思想方法一模一樣,而伯恩施坦的思想方法是他的資產階級世界觀的最細緻和最可靠的徵候。

但是,在伯恩施坦看來,連“資產階級”一詞也不是階級表現,而是一般的社會概念。這只不過說明(這是完全合乎邏輯的,不言而喻的)他已經用資產階級的語言代替了無產階級的歷史語言,代替了無產階級的科學、政治、道德和思想方法。當伯恩施坦把“資產者”理解為既是資產階級,又是無產階級,即毫無區別地理解為一般的人的時候,他實際上是把一般的人同資產者,把人類社會同資產階級社會等同起來了。

[如果說,在開始同伯恩施坦討論的時候,有人還希望用社會民主黨的科學兵器庫裡的論據來說服他,使他能夠回到運動中來,那麼,他現在就不得不完全放棄這種希望了。因為現在對雙方來說,用同樣的語言已經不再表示同樣的概念,用同樣的概念已經不再表示同樣的社會事實了。同伯恩施坦的討論已經變成兩種世界觀、兩個階級、兩種社會形態的爭論了。伯恩施坦和社會民主黨現在完全站在不同的基礎上。 ]

 

j二版在“無所不能“之後加了“(萬能的)”。

j二版改為“同辯證法分手“。

k列奧.卡普里維(1831—1899)——1890—1894年期間任德意志帝國首相。 ——編者註

l克洛德維希.霍享洛埃-席林格菲爾斯公爵(1819—1901)——1894—1900年期間任德意志帝國首相。 ——編者註

m漢斯.海爾曼.伯勒普什——1890—1896年期間任普魯士商業大臣。 ——編者註

n指1890年2月4日德皇威廉二世頒布的關於勞動保護立法的兩個法令。 ——編者註

k參看本卷第37頁2



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五機會主義的理論和實踐



伯恩施坦的書對德國工人運動和國際工人運動有j巨大的歷史意義:它是為黨內k的機會主義思潮建立理論基礎的第一個嘗試。

我們運動中的機會主義思潮,如果把一些偶然的表現,如大家都知道的輪船補貼問題也算進去,已經存在很長時間了。但是,一個明顯表現出來的統一的機會主義思潮卻是在九十年代初開始的,是在反社會黨人法垮台,重新獲得合法地位之後開始的。福爾馬爾的國家社會主義l巴伐利亞的預算投票m、南德的農業社會主義n、海涅的補償提案o、最後席佩耳的關稅觀點和民軍觀點p,這些就是機會主義實踐發展的路標。

機會主義實踐的外部標誌首先是什麼呢?是對“理論”的敵視。這是很容易理解的,因為我們的“理論”即科學社會主義的原理,無論在追求的目的方面,無論在應用的鬥爭手段方面,最後無論在斗爭的方法方面,都給實際活動規定了十分明確的界限。因此,那些只想追求實際成果的人就很自然地力圖使自己的手腳不受束縛,也就是說,力圖讓我們的實際工作脫離“理論”,不依賴於理論。

但是,就是這個理論對於他們的每一個實際企圖都給予迎頭痛擊。國家社會主義、農業社會主義、補貼政策、補償政策和民軍問題,機會主義都遭到了失敗。顯然,這些思潮如果想反對我們的基本原則那就勢必向理論本身,向基本原理挑戰,而不是對它視而不見。它們總要試圖動搖這些基本原理,並且建立自己的理論。伯恩施坦的理論正是朝著這個方面走的一個嘗試。因此,我們在斯圖加特代表大會j上看到所有的機會主義分子立刻在伯恩施坦的旗幟周圍集合起來了。如果說,一方面,實際工作中的機會主義思潮是一種十分自然的、可以由我們的鬥爭的條件和鬥爭的發展加以解釋的現象,那麼,另一方面,伯恩施坦的理論也同樣是一個可以理解的嘗試,這就是它想把這些思潮用一種普遍的理論表述概括起來,找出它們自己的理論前提,同科學社會主義較量一番。因此,伯恩施坦的理論一開始就機會主義在理論上的耐火試驗,是機會主義的第一個科學證書。

這次試驗的結果如何呢?我們已經看到了。機會主義創立不了多少k能夠經得起批評的積極理論。它所能做的一切就是:先是向馬克思學說的各個基本原理進攻,最後是把整個體係從最上層到基礎統統毀掉,因為這個學說是一牢固結合的建築物。這說證明,機會主義實踐的本質和基礎是同馬克思體係不相容的。

但是,它也進一步證明,機會主義同社會主義也是根本不相容的,它的內在的趨勢說是要把工人運動推到資產階級的軌道,也說是說,是要使無產階級的階級鬥爭完全麻痺。當然,從歷史上說,不能把無產階級的的階級鬥爭同馬克思體係等同起來。在馬克思以前,並且同馬克思無關,就有了工人運動和各種社會主義體系,每一個體係都是某種[完全] 適合當時條件的工人階級解放意圖的理論表現。用道德上的公平觀念來論證社會主義;不是反對生產方式,而是反對分配方式;把階級對立理解為貧富對立;在資本主義經濟範圍內企圖實行“合作”原則,——我們在伯恩施進體系中遇到的這一切,早已存在了。這些理論在它們那個時代儘管有一切欠缺之處,但仍然是無產階級階級鬥爭的真正理論,它們都是幼兒學校,無產階級是在這些學校裡學會走上歷史舞台的。

但是,當階級鬥爭本身的發展和它的歷史條件已經導致擺脫這些理論並形成科學社會主義的基本原理之後,除了馬克思的社會主義以外,就不能再有社會主義,離開了社會民主黨就不能有社會主義的階級鬥爭,至少在德國是如此。自此以後,社會主義和馬克思主義,無產階級的解放鬥爭和社會民主黨就是一回事了。因此,回到馬克思以前的社會主義理論,現在不再是意味著回到無產階級的偉大幼兒學校,不是的,現在這意味著回到資產階級的已經穿破了的小便鞋裡去了。

伯恩施坦的理論是給機會主義奠定基礎的第一次嘗試,同時也是最後一次嘗試。我們說第一次,是因為機會主義在伯恩施坦的體系中,無論在消極方面,即在否定科學社會主義方面,也無論在積極方面,即在把一切理論上的混亂東西雜亂無章地堆在一起方面,都已經走得如此之遠,已經再沒有更多的事情可做了。由於伯恩施坦的這本書,機會主義在理論上的發展也就完成了[正像由於席佩耳對待軍國主義問題的立場,機會主義在實踐上的發展完成了一樣],作出了它最後的結論。

馬克思的學說不僅是能夠在理論上推翻機會主義的學說,而且是唯一能夠把機會主義放在黨的成長過程中加以說明的學說。無產階級為達到它的最後勝利而舉行的具有世界歷史意義的進軍,實際上“不是那麼簡單的事”。這個運動的全部特點在於,這裡是世界歷史上由人民群眾自己並且違反統治階級的意志而實現自己的意志,而這個意志必須超越現今社會的界限,在現今社會的來世去實現。而培養這種意志又只能在同現存制度不斷鬥爭中,在現存制度的框框裡進行。廣大人民群眾同一個超越全部現存制度的目的結合,日常鬥爭同偉大的世界改造結合,這說是社會民主主義運動的大問題,這個運動因此在整個發展過程中也必然在兩塊礁石之間前進:一邊是否認群眾性,一邊是否認最終目的;一邊是重新回到宗派主義,一邊是滾入資產階級改良運動;一邊是無政府主義,一邊是機會主義。

當然,馬克思的學說在它的理論武庫中早在半個世紀以前就提供了既反對這個極端又反對那個極端的致命的武器。可是,正因為我們的運動是一個群眾運動,而威脅著運動的危險不是從人們的頭腦中而是從社會條件中產生的,因此,那種跳到無政府主義一邊和跳到機會主義一邊去的現象,不是可以用馬克思主義理論在事先一勞永逸地了防止得了的;它們一旦在實踐中降生,就必然只有通過運動本身才能克服,自然是只有在馬克思提供的武器的幫助下才能克服。較小的一種危險,即無政府主義的小兒麻疹,社會民主黨已經把它和“獨立運動”j一起克服了。較大的一種危險,即機會主義的水腫病,社會民主黨現在正在克服。

近年來,運動在廣度上有了巨大的增長,鬥爭的條件複雜化了,鬥爭的任務也複雜化了,在這種情況下,必然有這樣一個時刻到來,這時在運動中對能否達到偉大的最終目的的將發生懷疑,對運動的思想因素將產生動搖。偉大的無產階級運動就是這樣發展的,它只能是這樣的,不能是別樣的,動搖和畏縮的時刻,對於馬克思的學說來說,不是出乎意外的事,倒是馬克思早已看到和預言過的。馬克思在半個世紀以前j寫道:“資產階級革命,例如十八世紀的革命,總是突飛猛進,接連不斷地取得勝利的;革命的戲劇效果一個勝似一個,人和事物好像是被五色繽紛的火光所照耀,每天都充滿著極樂狂歡;然而這種革命為時短暫,很快就達到自己的頂點,而社會還未清醒地領略其疾風暴雨時期的成果之前,一直是沉溺於長期的酒醉狀態。相反地,象十九世紀的革命這樣的無產階級革命,則經常自己批評自己,往往在前進中停下腳步,返回到彷彿已經完成的事情上去,以便重新開始把這些事情再做一遍;它們十分無情地嘲笑自己的初次企圖的不徹底性、弱點和不適當的地方;它們把敵人打倒在地上,好像是只是為了要敵人從土地裡吸取新的力量並且更加強壯地在它們前面挺立起來一樣;它們在自己無限宏偉的目標面前,再三往後退卻,一直到形成無路可退的情況為止,那時生活本身會大聲喊道:

這裡是羅陀斯,就在這裡跳躍吧!

這裡有玫瑰花,就在這裡跳舞吧! k”

就在科學社會主義學說已經建立之後,這段話仍然是定律。由於有了科學社會主義,無產階級運動也不是一下子變成社會民主主義性質的,甚至在德國也不是這樣。它是一天天地變成社會民主主義性質的,它變成這樣也是在斗爭過程中進行的,而且是在不斷克服無政府主義和機會主義的極端偏向的過程中進行的。而這兩種偏向不過是當作過程來理解的社會民主黨運動的要素。

從這上點看來,令人吃驚的不是竟有機會主義思潮產生,倒不如說這個思潮竟如此虛弱。當機會主義只是黨的實際工作的個別場合被沖破的時候,人們還以為在它後面總有一個多少是認真的理論基礎。可是現在它在伯恩施坦的書裡已經完整地表達出來,每一個人都會奇怪喊道:怎麼,你要說的就這些嗎?連一點一滴的新思想都沒有!沒有哪個思想不是早在幾十年前就被馬克思主義駁倒過、踩踏過、嘲笑過、摧毀過!

機會主義說的話已經夠多了,這就證明它沒有東西可說了。伯恩施坦的書在黨的歷史上所具有的真正意義就在於此。

伯恩施坦在同革命無產階級的思想方法、同辯證法和唯物史觀告別的時候,還可以感謝它們,因為它們給他的變化找到了從寬發落的環境。因為只有辯證法和唯物史觀的寬宏大量才讓伯恩施坦作為預先註定的而不自覺的工具出場,通過這樣一個工具,向前猛進的無產階級已經將自己一時的不堅定性表現出來,以便在仔細觀察之後,冷笑著將它從自己方面遠遠拋擲出去。

[我們已經說過:運動變成社會民主主義性質,是在克服隨著它的發展必然產生的無政府主義和機會主義偏向過程中進行的。但是,克服並不意味著按上帝的意願讓一切都平安無事。克服現在的機會主義思潮意味著摒棄它。

伯恩施坦在結束他的那本書的時候勸告黨,要黨敢於表現為它實際的那個樣子,即一個民主的社會主義的改良政黨。在我們看來,黨,也就是說,黨的最高機關——黨代表大會必須對這一切告給予回敬,也要伯恩施坦正式地表現為他實際的那個樣子,即一個小資產階級民主進步黨人。 ]

 

j二版改為“已經有了”。

k二版改為“在社會民主黨內”。

l指福爾馬爾鼓吹的通過國家的干預災行社會主義的改良主義觀點。 1892年11月14日的社會民主黨柏林代表大會一致通過了一項決議,揭露國家社會主義是誘使工人脫離社會民主黨的手段。 ——編者註

l見本卷第49頁l——編者註



m見本卷第49頁m——編者註

o沃爾弗岡。海涅1898年2月10日在柏林第三選區發表演說,主張社會民主黨可以為了“人民的自由”投票先贊成普魯士反動政府的軍事要求。這就是所謂“用大砲換取自由”的補償政策。 ——編者註

p參看本文附錄《民軍和軍國主義》。 ——編者註

j指1898年10月3—8日舉行的德國社會民主黨斯圖加特代表大會。 ——編者註

k二版改為“稍微”。

m見本卷第48頁j——編者註

j二版在這句話之後加了“在他的《霧月十八日》中”。

l前一句話引自伊索寓言中的《說大話的人》。這是針對一個說大話的人講的話,他硬說自己曾在羅陀斯島跳得很大很遠很遠。後一句是黑格爾在《法哲學》一書序言使用過後,是前一句的代用語(“羅陀斯”在希臘文中是島名,也是“玫瑰花”)——編者註







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附錄:民軍和軍國主義ã
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從黨的隊伍裡對於我們綱領中的個別要求和我們的策略發出批評的聲音,這不是第一次,但願也不是最後一次。這件事情本身是最值得歡迎的。但是,問題首先在於是怎樣的批評,而我們所說的怎樣,不是指凡事都要紛紛議論一番的“風氣”,而這種風氣在黨內已成為時髦,我們指的是重要得多的東西,即批評的一般基礎,指在批評中表現出來的一定的世界觀。

伊塞格里姆-席佩耳發動的反對建立民軍的要求和擁護軍國主義的十字軍討伐,實際是以一整套前後一貫的社會政治世界觀為基礎的。

席佩耳維護軍國主義是從這樣的一般立場出發的,就是確信這種軍事制度是必要的。他用一切可能的軍事技術的、社會的和經濟性質的論據來證明常備軍是不可缺少的。當然,從某種立場來看,他是對的。常備軍、軍國主義事實上是不可缺少的,但是對誰呢?對今天的統治階級和現在的政府。但是,對現在的政府和統治階級來說,廢除常備軍,採用民軍制度即實行人民武裝從他們的階級立場出發是不可能的、荒謬的,除了得出這樣的結論外,難道還能得出別的結論嗎?如果說,席佩耳自己也認為建立民軍是不可能的、荒謬的,那麼,這只是表示他自己在軍國主義這個問題上也站在資產階級立場,表示他是用資產階級政府的或資產階級的眼光來看待民軍的。他的每一個論據都清楚地證明了這一點。他認為,用武器把一切公民武裝起來(這是民軍制度的基礎)是不可能的,因為我們沒有錢辦這件事,“文化任務已經苦得夠了”。可見,他的主張是單純從今天的普魯士德意志的財政經濟出發的,除了米凱爾的辦法j,他根本不可能設想實行別的辦法,例如對資本家階級採用累進的形式課稅,甚至在實行民軍制度的條件下也是如此。

席佩耳認為青年的軍事訓練(民軍制度的另一基石)是不適宜的,因為在他看來,軍士做教官會用腐化的習氣影響青年。當然,在這裡他指的是今天的普魯士軍營中的軍士,把他們簡單地帶到他設想的民軍制度中去當青年的教官。他的這種思想方法使人生動地想起了尤利烏斯.沃爾弗教授。這位教授反對社會主義社會制度的一個重要的理由就是,照他的計算,在社會主義統治下,利息率會普遍提高。

席佩耳認為今天的軍國主義在經濟上是不可缺少的,因為它“減輕”社會所承受的經濟壓力。考茨基用盡一切心思去猜測這位社會民主黨人席佩耳怎麼會想出用軍國主義來“減輕”負擔,並且對於每一個可能的解釋都作了中肯的答复。但是,席佩耳顯然不是作為一個社會民主黨人,從勞動人民的立場來看問題的。當他談到“減輕”負擔時,很顯然,他想到的是資本。在這一點上他當然是對的:對於資本來說,軍國主義是重要的投資形式,從資本的立場看來,軍國主義確實是一個減輕負擔的辦法。席佩耳在這裡是以資本利益的正確代表的身份講話,還可以用這下面的事實來證明,就是他在這個問題上已經找到了一個公認的見證人。

下面是1899年1月12日在國會會議上的一段話:“各位先生,我認為,有人說二十億國債完全作了非生產性的支出,一點也沒有向你們提供生產性的收入,這也是完全錯誤的。我斷定,現沒有比軍事支出更帶有生產性的投資了!”(著重號是我加的。——羅.盧.)這裡,速記記錄記下了:“左邊活躍”。發言人是馮。施杜姆男爵j。

席佩耳的所有主張的特點恰恰不在於其本身是錯誤的,而在於以資產階級社會的觀點為基礎。正因為如此,從社會民主黨的觀點看來,在席佩耳那裡一切都是頭腳顛倒的:常備軍不可缺少,軍國主義在經濟上有用,民軍不切實際,等等。

席佩耳在軍國主義問題上的觀點,在一切主要方面同他在另一個最重要的政治鬥爭問題即關稅政策上的觀點是一致的,這是十分驚人的。

首先,我們處處看到,他堅決拒絕把這種或那種立場同民主或反動問題聯繫起來。在斯圖加特黨代表大會的發言中k說,認為自由貿易就是進步,而保護關稅就是反動,這是錯誤的。回顧一下悠久而寬闊的歷史就可以證明,一個人可以是一個很好的自由貿易家,同時也可以是一個反動派,反過來說,一個主張保護關稅的人,同時也可以j是民主制的好朋友。我們現在聽到的幾乎是同樣的話:“有熱烈擁護民軍制度的人,他們設置無窮無盡的障礙來破壞我們的工商業生活,他們想把下士的精神移植到我們的孩子的頭腦中去,直到最小的班級,——這些要比今天的軍國主義壞得多。也有反對民軍制度的人,他們誓死反對任何這樣過分傳播軍事傾向和軍事要求的事情。”k

資產階級政治家在這個問題上同在別的問題上一樣,是沒有原則立場的,他們奉行的是隨機應變政策,從這一事實出發,社會民主黨人席佩耳認為自己也有權和有必要否認保護關稅和軍國主義的反動實質,或者說,否認自由貿易和民軍制度的進步意義,這也就是說,在這兩個問題上同樣採取無原則立場。

我們在這個問題上和在那個問題上一樣,看到的是他一面反對保護關稅或者軍國主義的個別禍害,一面又堅決拒絕把兩個現象本身作為一個整體與之鬥爭。在斯圖加特,我們在席佩耳的發言中聽到有必要同個別過高的關稅進行鬥爭的意見,但是同時也聽到過這樣的警告:“把自己拖住了”,束縛了自己的手腳“ ,也就是說,總是到處同保護關稅作鬥爭l。現在我們聽到,席佩耳還是容許“對具體的軍事要求進行議會鬥爭和宣傳鬥爭”m(著重號是我加的。——羅.盧.),不過他警告說,不要把“純粹表面的偶然東西和(軍國主義——羅.盧.)對其社會領域的十分次要的、當然也是十分偶然的反作用,當作是它的本質和核心”j。

最後,第三,這是上述兩個觀點的基礎,在這個問題上也和別的問題一樣,對現象的最後估價完全是從已往的資產階級發展的觀點出發,就是說,從歷史條件規定的進步的一面出發,完全抹殺了進一步的、未來的發展,因此,也就抹殺了被研究的現象的反動的一面。在席佩耳看來,保護關稅仍然是已故的弗里德里希.李斯特在半個多世紀以前看到的那個樣子:是超越了德國中世紀封建經濟的分裂狀況的一個大進步。普遍的自由貿易在今天已經成為在統一的世界經濟中超越內部經濟界線的同樣必要的步驟,因而各國的關稅壁壘已經是一種反動,這種情況,在席佩耳看來是不存在的。

在軍國主義問題上也是一樣的。他仍然從一個巨大進步的觀點來看待軍國主義,認為建立在普遍義務兵役制基礎上的常備軍,同以前的僱傭軍隊和封建軍隊比較起來,是一個大進步。但是,在席佩耳看來,發展到這裡,也就停止不前了。在他看來,歷史是不會超越常備軍制度而進一步實現普遍義務兵役制的。

但是,席佩耳在關稅問題上和軍事問題上採取的這些具有特色的觀點的意義何在呢?第一,它們表示用隨機應變的政策代替原則立場,與此聯繫k,它們表示只反對關稅或軍國主義的贅瘤l而不反對製度本身。但是,這種政策如果不是我們黨最近的歷史上為人們所熟知的機會主義,還能是別的什麼政策呢?

伊塞格里姆一席佩耳公然拒絕構成我們政治綱領的基本論點之一實行民軍制度的要求,這是“實際政策”又一次在慶祝勝利。從黨的政治觀點來看,席佩耳行動的真正意義就在於此。只有聯繫整個機會主義思潮,並從機會主義一般基礎和後果的觀點出發,才能對最近在社會民主黨內部發生的行動作出正確的判斷和估價。




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機會主主政策的根本標誌,就是它總是要合乎邏輯地發展到為了工人階級眼前的利益,而且是想像出來的利益而犧牲運動的最終目的,犧牲工人階級解放的利益。席佩耳在軍國主義問題上的主要論點之一,鮮明地證實上述原理對於席佩耳的政策也是不言而喻適用的j。在席佩耳看來,迫使我們堅持軍國主義制度的最重要的經濟理由是,通過這個制度可以在經濟上“減輕”社會的負擔。我們姑且不說,這個稀奇古怪的主張連最簡單的經濟事實都不顧。相反,為了勾畫出這個思想方法的特徵,我們暫時假定這個荒謬的主張是真理,軍國主義事實上使“社會”“減輕了”多餘的生產力的負擔。

這種現像對於工個階級會產生什麼影響呢?顯然,通過維持常備軍,把勞動後備軍的一部分,把使工資降低的人的一部分解脫出來,從而可以改善勞動條件。這意味著什麼呢?這只是意味著:為了減少勞動市場上的供給,為了限制競爭,第一,工人要把自己工資的一部分以稅k的形式交出去,以便把他的競爭者當作士兵養活著;第二,他把這個競爭者變成一種工具,資產階級國家利用這一工具把工人為改善自己生活狀況而進行的每一個活動(起義、集會結社等)鎮壓下去,必要時把它們淹沒在血泊中。這就是說,工人生活的這種改善就會煙消雲散,而在席佩耳看來,軍國主義之所以必需就是為了這種改善;第三,工人把這些競爭者變成了整個反動派最可靠的基石,j也就是說,變成了他們自己在社會上受奴役的基石。

換句話說,由於軍國主義,工人在一定數量上防止了工資的直接減少,但是為此卻大大喪失了持續不斷地進行鬥爭來提高工資,改善自己生活狀況的可能性。作為勞動力的賣者,他佔了便宜,但是作為一個公民,在政治運動的自由方面卻受了損失,歸根到底,作為勞動力的賣者,他也受了損失。他消除了一個勞動市場上的競爭者,結果卻看到產生了一個工資奴隸制度的保護者,他防止了工資的降低,結果卻縮小了不斷改善自己生活的前途,也縮小了自己在政治上、經濟上和社會上最後解放的前途。所謂通過實行軍國主義來使工人階級在經濟上“減輕”負擔的實際意義就在於此。在這裡,和在所有機會主義政策的空想家那裡一樣,我們看到的是,為了眼前的小小的實際利益而犧牲了社會主義階級解放的偉大目的。而且這種利益仔細考察起來證明完全是虛幻的。

但是人們會提出一個問題:席佩耳怎麼會產生如此荒謬的恩想,竟然也從工人階級的立場宣布軍國主義可以“減輕”負擔呢?我們回想一下,從資本的立場是怎樣看待這個問題的。我們已經說過,軍國主義為資本創造了最賺錢最不可缺少的投資方式。 [的確! ]通過稅收到達政府手中用來維持軍國主義的那筆資金,假如仍然留在居民手中的話,就是一筆不斷增長的對生活必需資料[和享受資料]的需求,或者,假如由國家大量地用於文化目的,同樣可以造成對社會勞動相應需求,這固然地很明顯的。同樣明顯的是,這樣一來,對於整個社會來說,軍國主義決不會”減輕“負擔。可是,從資本主義利潤的觀點看來,從企業的觀點看來,問題就完全不同了。對資本家來說,對產品的一定需求是在分散的私人買主手中還是在國家手中,那是完全不一樣的。國家的需求的特點是可靠,量大,價高,大都是壟斷價格。這些特點使國家成為資本的最有利可圖的顧客,而向國家供應產品就成了資本最光輝的業務。

但是,軍事供應同例如國家用於文化目的(學校、道路等等)的支出相比是特別有利的,這是因為有不斷發生的技術改造和不斷增長的各種支出。因此,軍國主義是資本主義利潤永不枯竭的泉源,而且是越來越豐富的泉源。它使資本上升為一種社會權力,正像在克虜伯和施杜姆的企業裡對抗工人的社會權力一樣。軍國主義對整個社會來說,經濟上是完全不合理的對生產力的巨大浪費;對於工人階級來說,意味著壓低他們的經濟生活標準j,目的的使他們在社會上受奴役;對於資本家階級來說,在經濟上是最光輝的、無法代替的投資方式,正像在社會上和政治上是他們的階級統治的支柱一樣。因此,當席佩耳不加思索地把這樣一種軍國主義宣佈為經濟上“減輕”負擔的必要手段的時候,顯然,他不僅把社會利益的觀點同資本利益的觀點混為一談(正如我們在開頭已經說過的,他這樣也就站到了資產階級立場),而且當他認為企業主的每一個經濟利益必然也是工人階級的利益的時候,他也是從資本和勞動利益協調的原則出發的。

這又是我們在關稅問題上曾經從席佩耳那裡領教過的那個觀點。在這個問題上,席佩耳在原則上擁護保護關稅,因為他把工人當做生產者,想保護他們不受外國工業毀滅性產競爭的影響。在這里和在軍事問題上完全一樣,他只看到工人直接的經濟利益,忽視了他們遠大的社會利益,而這種利益是同實行自由貿易或廢除常備軍這樣的一般社會進步相聯繫的。在這問題上和在那個問題上一樣,他設想的工人的直接經濟利益,也正是j資本的利益,因為他相信,凡是對企業主有利的事,對工人也是有利的。為眼前的實際收穫犧牲運動的最終目的,從資本和勞動利益協調的觀點估計實際利益,——這兩個基本原理是和諧地互相結合在一起,又是一切機會主義政策的根本標誌。

一個擁護這種政策的人居然設法引證社會民主黨綱領的創始人的話,儘管他在軍事問題上的保護人是馮.施杜姆男爵,而又十分嚴肅地把弗里德里希.恩格斯看做自己在這個問題上的保護人,這種情況乍一看來是令人吃驚的。席佩耳自以為在關於軍國主義的歷史必然性和歷史發展的理解方面同恩格斯是一致的。但是,這只不過再一次證明,在頭腦中引起驚人混亂的東西,過去是消化得不好的黑格爾辯證法,現在則是消化不好的馬克思主義的歷史觀。而且這再表明,不論是一般地說,辯證的思想方法,或者特殊地說,唯物的歷史哲學,這兩者在正確理解了的時候是多麼革命,只要錯誤地加以理解,就會得出危險的反動結論。如果人們讀一讀席佩耳引證的恩格斯的話,即從《反杜林論》中摘引的關於軍事制度正走身自我消滅和向民軍發展的觀點,那麼,乍一看來,席佩耳在這個問題上的見解同黨通常所持的見解究竟有什麼不同,是不清楚的。我們本來就把軍國主義看做社會發展的必然的、不可避免的花朵k,席佩耳也是這樣。我們認為軍國主義會進一步發展到民軍制,席佩耳也是這樣。那麼,究竟是什麼分歧把席佩耳帶到反動的反對民軍要求的立場上去的呢?非常簡單,我們和恩格斯一樣,把軍國主義向民軍發展的內在發展傾向看做不過是消滅軍國主義的條件,而席佩耳則認為未來的民軍也是從今天的軍國主義中自然而然地、 “從內部”成長起來的。我們想利用推廣義務兵役制和縮短服役期這些客觀發展給我們提出的物質條件,通過政治鬥爭實現民軍制度,而席佩耳卻聽任軍國主義和伴隨它而來的種種現象自己發展,把促進實行民軍制度的每一項自覺的干預都斥之為幻想和“啤酒館裡的政治“j。

這樣,我們得到的不是恩格斯的歷史觀,而是伯恩施坦的歷史觀。正如伯恩施坦認為資本主義經濟可以自然而然地、沒有飛躍地、逐步地“長入”社會主義,席佩耳則認為從今天的軍國主義中可以自然而然地長出民軍來。伯恩施坦對於整個資本主義的觀點也好,度佩耳對於軍國主義的觀點也好,他們都不認為,客觀發展只是把一個更高的發展階段的條件交到我們手上,但是,如果沒有我們自覺的干預,沒有工人階級為社會主義變革或者為實現民軍制度而進行的政治鬥爭,無論社會主義或者民軍制度都不能實現。因此,既然舒舒服服“長入”的想法只是一種幻想,是逃避有明確目的的革命鬥爭的一種機會主義,那麼,通過這條道路也可以達到的社會變革和政治變革也就成了資產階級可憐的點綴品了。在伯恩施坦“逐步社會化”的理論中,我們所理解的社會主義的一切終於從社會主義的概念本身中完全消失了,社會主義變成了“社會監督”,也就是變成了無害的資產階級社會改良;在席佩耳的見解中,“民軍”從自由的、自己決定戰爭與和平問題的武裝人民(這是我們的目的),變成了按照今天短期服役的常備軍制度的精神將普遍義務兵役制度推廣到所有一切適合服役的公民。席佩耳的觀點如果用於我們政治鬥爭的一切目的,就會直接走向否定整個社會民主黨的綱領。

席佩耳維護軍國主義的行動是對於我們黨內全部機會主義k思潮的清楚的說明,同時也是機會主義思潮發展中的一個重要步驟。我們早些進時候也聽到一位社會民主黨國會議員海涅說過,我們在一定情況下可同意資本主義政府的軍事要求。但是,那時這只是當作為了實現社會民主黨的更高目的而作出的讓步來考慮的。按照海涅的看法,大砲至少只是當做交換人民權利的交換對象來用。現在席佩耳卻宣佈為大砲而大砲是必需的。雖然兩者的結果都一樣,都是支持軍國主義,但是,在海涅那裡,這至少還是建立對社會民主黨的鬥爭方法的錯誤理解的基礎之上,而在席佩耳這裡,乾脆是從改變鬥爭目的出發。那裡只是建議用資產階級策略代替社會民主黨的策略,而這裡卻大膽地用資產階級的綱領代替社會民主黨的綱領。

在席佩耳“對民軍的懷疑”中,“實際政策”已經得出了自己的最後的結論。它在反動的方向上已經無法再前進了,剩下要做的事只有把實際政策擴展到綱領的其他論點上,脫掉在自己身上的社會民主黨大衣的破片,赤裸裸的露出納烏曼j牧師的典型面目。


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[如果社會民主黨是社會政治問題的一個爭論俱樂部,那麼我們認為席佩耳事件在理論上同他爭論之後已經了結了。但是,既然社會民主黨是一個進行政治鬥爭的黨,那麼對它來說,通過理論上證明席佩耳觀點的錯誤是不解決問題的,不如說,這是第一次提出了問題。席佩耳關於民軍的聲明不僅僅地某種思想的表現,而且也是一個政治行動。因此,黨對這一聲明的回答也必然不僅是對一些觀點的反駁,同時也地一種政治行動。而且這種行動也必然關係到席佩耳的見解的影響。

在過去幾年中,一向作為社會民主黨基石的所有行之有效的原理,由於來自我們自己隊伍裡的攻擊,對它們的效用產生了動搖。愛德華.伯恩施坦宣布,對他說來,無產階級運動的最終目的是微不足道的。沃爾弗岡.海涅通過他關於補償政策的建議表示,對他說來,社會民主黨通常的策略是微不足道的。現在,席佩耳證明,他也完全不受黨的政治綱領的約束。無產階級鬥爭的基本原理幾乎沒有一個被黨的個別代表化為烏有。這本身就呈現了一個令人極不愉快的一般景象。不過,從黨的利益的觀點出發,人們也還必須將其中具有十分重要意義的聲明區分出來。伯恩施坦對們理論上的有效性的批評無疑是一種非常不幸的現象。但是實際的機會主義對運動是無比危險的。只要運動在實際鬥爭中是健康的、有力的,對最終目的的懷疑態度就總是能夠被運動掃除掉。但是,只要對最近目的,即實際鬥爭本身提出了問題,那麼,整個黨,包括最終目的和運動不僅是在這個或那個黨的哲學家的主觀想像中,而且也在客觀的現實中就變成了“微不足道的”。

席佩耳攻擊的目標僅僅是我們政治綱領的一個論點。但是,從軍國主義對現在的國家所起的基本作用來看,這個單個的論點實際上已經意味著否定了社會民主黨的全部政治鬥爭。

資本主義國家也好,資產階級也好,它們的權力和統治都凝結在軍國主義之中,而社會民主黨是原則上反對軍國主義的唯一的政黨。因此,反過來說,反對軍國主義的原則鬥爭就是社會民主黨的本質。放棄同軍國主義制度的鬥爭在實踐上就會導致根本否定同現存的社會制度的鬥爭。我們在上一節結束時說過,機會主義剩下要做的事只有把席佩耳的立場從民軍的問題擴展到綱領的其他論點上,以便徹底否定社會民主黨。我們在這裡想到的只是這一政策的擁護者的主觀的、自覺的發展。在客觀方面,這一發展實質上已經在席佩耳的見解中完成了。

最近在機會主義的聲明中,特別是在席佩耳的行動中,還有一個方面值得重視,至少因為它有像徵性的價值。這是一種玩笑般的輕鬆,一種泰然自若的鎮靜,甚至象最近發生的情況那樣,是一種愉快的歡樂,正是用這樣的態度來動搖社會民主黨的基本原則。而每一個不是完全表面地了解黨的事務的同志都把這些原則當作自己最親近的東西。這種動搖至少會在每一個正直的社會民主黨人中間引起良心上的嚴重危機。撇開別的東西,這也是我們革命不准降低、革命本能受到抑制的真實標誌。這種現象本身可能是不可捉摸的、不重要的,但是對於社會民主黨這樣一個政黨來說,無疑是重要的,因為這個黨暫時主要依靠的不是實際上的成果,而是思想上的成果,因此,它對自己成員的個人水平有必要提出很高的要求。機會主義對資產階級的思想方法所作的調和補充,也是它的資產階級的理解方式。

由於席佩耳在各個方面都作出了聲明,黨就有必要發表反對他的聲明。這一對抗行動能夠和必須包括哪些內容呢?第一,黨的全部報刊對這個問題應當採取明確的、毫不含糊的態度,黨的各種會議也必須對問題進行這樣的討論。按照席佩耳的看法,人民的集會只不過是有機會使人們向群眾拋擲“口號”的骨頭的場所,這樣就可以在一定的時候把政治上的“貴族老爺”選進國會,如果全黨不先贊成席佩耳的這一觀點,那麼它就不能把討論黨的最重要的政治基本原則看作是“貴族的領地”,僅僅是為了挑選少數人,而不是為了廣大黨員群眾。相反,只有把這種討論帶到黨的廣大範圍裡去,才能有效地防止席佩耳見解可能的傳播。

但是,第二,社會民主黨黨團的態度更為重要。黨團首先有義務對席佩耳事件發表決定性的看法,一方面因為席佩耳是國會議員和黨團成員,另一方面,因為他所說的問題是議會鬥爭的主要課題之一。我們不知道黨團對於這件事是否已經做了什麼事情。既然在伊塞格里姆的文章發表後不久作者的真名已經成了公開的秘密,那麼,黨團很可能不會叉手站在一旁看著它的一個成員嘲笑它自己的活動。

而且,如果它以前沒有這樣做,那麼在考茨基把席佩耳從他的狼窩裡喚醒以後,它是能夠彌補已經失去的時間的。黨團對席佩耳事件是否表明立場是無關緊要的,只要全黨還沒有了解它的立場,結果大概是一樣的。社會民主黨被迫在與其真正本質相違背的資產階級議會政治的鑲木地板上進行活動,顯然是不自覺地、不自願地採用了這種議會政治的許多習慣,而這些又是同黨的民主性質不完全一致的。在我們看來,比如說,黨團有僅對於資產階級政黨,而且對於自己的黨都地以封閉的團體出現。對前者是完全必要的,對後者則不恰當了。資產階級政黨的黨團的議會鬥爭主要使用幕後操縱、互相吹捧這種枯燥無味的手段進行,它有一切理由要避開公眾的視線。相反,只要是涉及到黨的原則問題或者重要的策略問題,社會民主黨的黨團既無必要,也無理由把它討論的結果看作是私人的事情。我們的黨團(資產階級政黨的黨團也是一樣)只有最後要在國會中達到一定的票數時,才召開黨團秘密會議來解決這樣的問題。但是,對於社會民主黨來說,它的黨團所進行的議會鬥爭,從純粹鼓動的觀點來看要比實際活動重要得多。問題不在於黨團形式上的多數決議,而在於它的討論本身,在於澄清情況。對於黨來說,了解它的代表關於國會討論的問題是怎樣想的,了解他們在國會裡怎樣就這些問題作為整體投票的,這至少是很重要的。在一個徹底實行民主的政黨裡,選民和代表之間的關係決不能認為通過選舉行動和在黨代表大會上的更為表面的、形式上的簡略報告就可滿足。相反,黨團必須盡可能地同黨的群眾保持活生生的、經常的聯繫,考慮到最近在黨的國會議員中出現的機會主義思潮,這樣做尤其將成為進行自衛的當務之急。黨團對席佩耳的見解公開表明態度過去和現在之所以必要,是因為黨的群眾,不管他們多麼希望這樣做,也不可能具有物質上的可能作為整體來出場。黨團是全黨指派的政治代表,它通過自己的公開的行動應當直接幫助黨表明必要的立場。

最後,第三,黨本身也必須對於席佩耳事件直接表明自己的觀點,而且應當在它所掌握的唯一形式——下一次黨代表大會上進行。

在斯圖加特討論伯恩施坦論文的時候,有人說黨的代表大會不能就理論問題進行投票。現在我們在席佩耳事件中遇到的純粹是實際問題。有人說,海涅關於補償政策的建議只是不合時宜的未來派的音樂,黨用不著去考慮它們。現在我們在席佩耳事件中看到的是現在的音樂。而且在席佩耳關於民軍問題的立場中,我們已經說過,機會主義政策已經達到了它的最後的結局,已經成熟到可以作出判決了。對於我們來說,現在黨的迫切任務就是從這一發展中作出正確的結論,採取明確的、毫無含糊的立場。

黨有一切理由這樣做。在這種情況下,問題在於委託人,黨的政治代表,按照職務來講,他應當是黨在斗爭中的一把劍,他的行動應當是阻擋資產階級國家進攻的堤壩。但是,如果這個堤壩在任何時候都可以變成像漿糊做的東西一樣,如果這把劍在戰場上象紙做的一樣一碰就斷,那麼黨從自己方面來講就不應當向這種政策呼籲:

讓漿糊一邊去吧,

我不需要這個!

漿糊是鍛造不了劍的! ]

《來比錫人民報》1899年2月24日收到席佩耳[在讀了前兩篇文章j之後]寄來的下述來信,作者要求公開發表:

親愛的朋友休恩朗克:

我總是帶著很大的興趣閱讀《來比錫人民報》上羅莎.盧森堡的文章,這並不是因為我始終同意義文章的一切論點,而是因為我對文章的生氣勃勃的戰鬥精神,誠實的信念和引人入勝的辯證法估價很高。

這一次,我看到下面的這個從一個前提出發而得出的越來越高、越來越快的結論,不是不感到驚奇的:

按照席佩耳的看法,迫使我們不得不支持軍國主義制度的經濟理由是,通過實行這個制度可以在經濟上減輕社會的負擔。席佩耳也從工人階級的立場出發宣布軍國主義是減輕負擔。 。 。 。 。 。因為他是從資本和勞動利益協調的原則出發的。

結論是可敬的,只是前提是絕對錯誤的、站不腳的!我在《新時代》上只是說,巨大的非生產支出——無論是個用於荒唐的奢侈和古怪的蠢事也罷,是國家用於軍事、俸祿和形形色色的胡鬧也罷——可以減輕危機的發燒症。一個“生產過剩”的社會,如果非生產性的浪費在用於生產目的的積累的同時不再不斷擴大地盤,就會經常因為這種發燒症而發生震動。很明顯,我這樣說絲毫沒有贊成浪費和非生產支出的意思,更沒有從工人階級的利益來提出要求。我不過是想指出它們“對現代社會” 所起的不同於通常強調的另一種實際的作用。

在最初,我毫不懷疑,誰也不能不把我評價為一個“為這一現代社會”而鬥爭的戰士。至於談到社會民主黨辯論的問題,我還是有一些經驗,為了避免任何誤會起見,我在談到生產過剩的那一節里後來還補充了短短的一句話:

當然,這不是使我對於軍國主義更加中意,而是更加不中意了。

這句話的意思是說,更加不能容忍了。但是,就連這種從我這方面來說是多餘的防犯,看來也無濟於事:“就這樣定了!”好像人們恰恰是在同一人資產階級婦女辯論一樣。

我在指出了《來比錫人民報》的撰稿人羅莎.盧森堡的誠實以後,相信她會看到這裡曾經採取的出發點是完全錯誤的,因此,我們之間為爭奪無產階級革命信念的獎章的競爭必須再一次從頭開始。

你的麥克斯.席佩耳




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如果席佩耳同志帶著驚奇的眼光注視著從他發表的一個觀點出發得出的“越來越高、越來越快的結論”,這不過再一次證明,即使在人們沒有邏輯的地方,觀點也有它的邏輯。

上面提到的席佩耳的答复,首先對於他在《新時代》上表述的關於資本主義社會通過實行軍國主義在經濟上可以“減輕”負擔的思想來說,是一個值得注意的補充:現在,除了軍國主義以外,還有“俸祿和形形色色的胡鬧”和“個人荒唐的奢侈和古怪的蠢事”可以作為減輕經濟負擔和預防危機的手段。這樣一來,關於軍國主義的經濟作用的特殊觀點就發展成為一個一般的理論,根據這一理論,浪費是糾正資本主義經濟的手段,而且,這個觀點也證明,我們對待作為政治經濟學家的馮.施杜姆男爵是不公道的,因為我們在第一篇文章中把他說成是席佩耳的保護人。當施杜姆把軍事支出稱為最富有生產性的支出的時候,他至少考慮了軍國主義在爭奪銷售市場和保衛“祖國工業”方面的意義。但是,我們已經弄清楚了,席佩耳在談軍國主義的時候,卻完全忽視了它資本主義社會中特有作用,他認為軍國主義只是年年把一定量的社會勞動耗費完的一種巧妙形式;在他看來,軍國主義在經濟上就像德。於採公爵夫人j的十六條小狗一樣,,它們佔據了一整套房間,僱用了一些僕人,使用整間整間的狗更衣室,就這樣來為資本主義經濟“減輕”負擔。

很可惜,席佩耳同志在他的經濟和政治傾向變幻無常的過程中,每次都同過去的傾向決裂得那麼徹底,以致過去的東西連一點影子都沒有留下。否則,既然他曾經是洛貝爾圖斯的門徒,他必然會想起在《致馮.基爾希曼的第四書簡》(第34頁以下)中的經典篇章,在那裡,他從前的老師曾經駁倒過k他今天的以奢侈醫治危機的理論,但是,這種理論比洛貝爾斯圖要早得多。

如果說,專門通過實行軍國主義來在經濟上減輕負擔的思想能夠產生新的魅力,至少在社會民主黨的隊伍是此,那麼,關於浪費對於資本主義社會可以起挽救作用的一般理論,就同資產階級庸俗經濟學一樣古老。

庸俗經濟學在它發展的迷途中的確提出了許多危機理論,但是,我們的席佩耳在今天所據為己有的理論,是屬於陳腐的一種,就它對於資本主義經濟的內部機構的認識來說,它甚至還低於庸俗經濟學不幸的丑角讓.巴.薩伊,按照他的看法,生產過剩其實就是生產不足。

席佩耳理論的一般前提是什麼呢?危機的產生,是由於同生產出來的貨物總量相比,消費顯得太少,因此,危機可以通過擴大社會內部消費的辦法來防止,照這種說法,資本主義危機的形成,不是由於生產中超越銷售市場界限的內在趨勢,不是由於生產的無政府狀態,而是由於生產和消費之間的絕對的比例失調。照這種看法,資本主義社會的貨物總量可以說是一座一定數量的米山,社會應當把它咬穿。消費得越多,作為消化的剩餘壓在社會的經濟責任心上的負擔越少,“減輕負擔”就越多。這是一個絕對的危機理論,它同馬克思的相對的危機理論的關係,恰恰和馬爾薩斯人口理論同馬克思的相對人口過剩規律的關係一樣。

但是,對於社會來說j,究竟誰是消費者並不是無關緊要的。如果消費僅僅是為了使生產同時重新活躍起來,那麼,米山增高了,“社會”一無所得,危機發燒症和從前一樣震動著社會。只有當貨物一勞永逸地被吸收掉。當它用於人們消費而人們又不再生產的時候,那時社會才會真正鬆一口氣,危機才能被防止。

企業主辛某對於他(也就是他的工人)生產的貨物不知怎麼辦好。幸而企業家孔某醉心於荒唐的奢侈生活,向他的窘迫萬分的階級同志買了成為累贅的商品。而孔某自己也生產有多餘的貨物,成為他的“負擔”。幸而上面提到的那位辛某同樣十分喜歡“奢侈和蠢事”,他自己也就成了憂心忡忡的孔某的熱烈渴望的顧客。現在,在交易順利結束後,我們的這兩們企業家相對愕然,他們很有興致地喊道,是你瘋了還是我瘋了?其實他們兩個都瘋了。那麼,照席佩耳所勸告的辦法做他們得到了什麼呢?當然,他們雙方誠心誠意地互相幫助去將一定量的貨物破壞無遺。但是,噢!企業的目的不是破壞物質財富,而是把剩餘價值兌現為閃閃發光的黃金。而在這種關係中,這個聰明的交易歸結起來就像是兩個企業各自吃完、消費完自己多餘的剩餘價值。這就是席佩耳減輕危機的手段。威斯特華倫的煤礦大王們苦於煤的生產過剩嗎?傻瓜!只要把他們的高樓大廈裡燒得熱些,煤炭市場就“減輕負擔”了。卡拉拉的大理石礦的礦主們抱怨商業停滯嗎?他們可以用大理石蓋馬厩,大理石業的“危機發燒症”馬上就可以防止了。如果有一個普遍的商業危機的烏雲翻滾起來,席佩耳就向資本主義喊道:“多吃些牡蠣,多喝些香檳酒,多用些穿號服的侍者,多要些舞女,你就得救了!”我們怕的是那些老奸巨滑的傢伙回答他說:“先生,你把我們看得比我們現在要笨得多!”

可是,這個聰明的經濟學理論還可以得出有趣的社會結論和政治結論。這就是說,如果只是非生產的消費,即國家的和資產階級的消費在經濟上可以減輕負擔並且是緩和危機的良藥,那麼,為了社會的利益,為了使生產循環平穩地進行,就必須盡量擴大非生產的消費,盡量限制生產的消費,盡量擴大社會財富中歸資本家和國家產部分,盡量縮小留給勞動人民的部分,盡量提高利潤和稅收,盡量壓低工資。工人是對社會的一種經濟“負擔”,而於採公爵夫人的小狗則是經濟上的救命恩人,這說是從席佩耳“減輕負擔”論得出的結論。

我們已經說過,這個理論即使在庸俗經濟學理論中也是最陳腐的一個。衡量庸俗經濟學的陳腐程度的尺度是什麼呢?庸俗經濟學的本質在於,它對資本主義經濟發展過程不是從它的客觀的聯繫j和它的內在本質中去觀察,而是從被競爭規律搞得四分五裂的現像中去觀察。不是用科學的望遠鏡,而是用資產階級社會個別當事人的眼光去觀察。但是,社會的圖景也是隨著這些當事人的立足點而變的,這個圖景會多多少少以歪曲的形式反映在經濟學的頭腦裡。立足點越接近真正的生產過程,觀點就越接近真實。研究者越是離開生產過程,走向商品交換市場,走向被競爭完全控制的領域,那麼,從這裡出發看到的社會圖景就越是會顛倒過來。

我們已經指出,席佩耳的危機理論從作為一個階級的資本家的觀點看來,是絕對站不腳的。這一理論歸結起來無非是這樣一種勸告:資本家階級應當自己消費掉自己生產的剩餘產品。但是,就是個別資本主義工業家也會對這種勸告聳聳肩膀。某個馮.施杜姆男爵j或者某個馮.海依爾要聰明得多,不會愚蠢到以為自己和自己階級的同志們的奢侈浪費會有辦法幫助克服危機。只有資本主義的商人,或者正確地說,資本主義的小販,才會有這種想法,因為在他看來,他的直接主顧“大人先生們”和他們的奢侈浪費就是整個經濟的基石。席佩耳的理論甚至連資本主義企業家觀點的翻版也不是,倒直接是資本主義小販的觀點的理論表現。

席佩耳通過軍國主義“減輕”社會負擔的思想,同愛德。伯恩施坦那時的見解一樣,都又一次證明,正如機會主義k在政策上採取的是資產階級立場,在經濟前提上它同庸俗經濟學也是連在一起的。

但是,席佩耳卻反駁我們從他的“減輕負擔”的理論得出的政治結論,說他只說過減輕社會負擔,沒有說過減輕工人階級的負擔。為了避免誤會起見,他還明確地作了補充保證說,在他看來“這不是使軍國主義更加中意,而是更加不中意了”。人們可以相信,席佩耳從工人階級的立場出發,也認為軍國主義在經濟上是起敗壞作用的。

那麼,他提出在經濟上減輕負擔是為了什麼呢?他在工人階級對待軍國主義的態度問題上從這裡得出什麼結論呢?我們聽吧,“當然在我看來,這(經濟上減輕負擔——羅.盧.)不是使軍國主義更加中意,而是更加不中意了。但是即便我從這個立場出發,也不能同意小資產階級自由主義的那種叫囂,說非生產性的軍事支出會引起經濟破壞”。 l(著重號是我加的。——羅.盧.)可見,席佩耳把那種認為軍國主義在經濟上有破壞作用的觀點看作是小資產階級的、錯誤的。可見,在他看來,軍國主義不是破壞,在他看來,“同意”反對軍國主義的“小資產階級自由主義的叫囂”,也就是說,反對軍國主義的鬥爭,是荒謬的。要知道,他的整篇文章的目的恰恰是要向工人階級證明軍國主義是不可缺少的。在這種情況下,他所作的保證,即在他看來軍國主義不是更加中意,而是更加不中意了,還有什麼意義呢?這不過純粹是一種心理上的保證,說席佩耳不是帶著愉快的心情,而是帶著厭惡的心情來維護軍國主義的,說他對於他的機會主義政策本身並不感到高興,說他的良心比他的頭腦好。

鑑於這個事實,我不能接受席佩耳的邀請,同他一起進行“革命無產階級信念”的競走。忠實不允許我同這樣的人競走,因為他背朝著出發點走進跑道的時候,他是處於可以想像的極不利的地位的。





發表於1898年9月21-28日《萊比錫人民報》

第219-225號;1899年4月4-8日第76-78號;

2月20-22和25日第42-44號和47號。譯自《

羅莎.盧森堡全集》1972年柏林德文版第1卷

第1冊第369-466頁。

(李宗禹譯)



《盧森堡森堡文選》上卷,人民出版社,1984年

 

ã本文發表於《來比錫人民報》(第42—44期和47期,1899年2月20—22日和25日),是對麥克斯.席佩耳的文章的答复。席佩耳發表過兩篇文章,一篇是1898年11月在《社會主義月刊》上用伊塞格里姆這一筆名發表的《恩格斯相信民軍嗎?》,一篇是在考茨基在《新時代》上駁斥了伊塞格里姆的文章以後(考茨基《弗里德里希.恩格斯和民軍制度》,載於《新時代》1898—1899年,第17年卷,第1冊第335—342頁)用席佩耳的名字發表的《弗里德里希.恩格斯和民軍制度》(《新時代》1898—1899年第19期和第20期)。

[大家知道,引起爭論的伊塞格里姆的文章是用這樣的話結束的:即使對於黨來說,最後也將(在民軍要求方面)說:“讓漿糊一邊去吧,我不需要這個!漿糊是鍛造不了劍的!”

為了使文章第四部分容易理解,我們將在此以前刊登在同一期《來比錫人民報》上的席佩耳的答復也抄錄下來。 ]——盧森堡注

j二版改為“這樣的辦法”。約翰內斯.馮.米克韋爾1890—1901年期間任普魯士財政大臣。他在1891年進行稅制改革時,把所得稅列為直接稅務制度的中心點。根據這一制度,所得在900馬克以下的不納稅,高於這個數目的一切所得最多課以4%的稅。 ——編者註

j卡爾。施杜姆(1836—1901)——德國的大工業資本家,社會民主黨的死敵。 ——編者註

k二版改為“席佩耳在斯圖加特黨代表大會的發言中”。

j二版改為“也可能”。

k 《新時代》第19期第580—581頁。 ——盧森堡注

l二版改為“不要把自己‘拖住了’,不要‘束縛自己的手腳’,也就是說,不要總是到處同保護關稅作鬥爭”。

m 《社會主義月刊》11月號第495頁。 ——盧森堡注

j 《新時代》第19期第581頁。 ——盧森堡注

k二版在“與此相聯繫”前面加了“第二,”。

l二版未加著重號。

j二版改為“確切適用的”。

k二版改為“間接稅”。

j二版改為“整個國家中政治上的反動派最可靠的基石”。

j二版改為“他們的經濟生活水平”。

j二版改為“毫無疑問是”。

k二版改為“結果”。

j意為沒有實際價值的空論。 ——編者註

l二版改為“修正主義”。

j弗里德里希.納烏曼(1860—1919)——基督教的神學家,國家社會聯盟的創始人。 ——編者註

j指本文的第一部分和第二部分。 ——編者註

j二版改為“巴黎的德.於採公爵夫人”。

k二版改為“反駁過”。

j二版改為“按照這個聰明的理論,對於社會來說”。

j二版改為“不是從它的深刻的聯繫”。

j二版改為“某個克虜伯”。

k二版改為“修正主義”。

l 《新時代》第20期第617頁。 ——盧森堡注